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八幡 泰彦


木馬座時代の始まり
大きいとは言え6畳ぐらいの部屋が欲しいといった程度の広さがあればいい、ま、可愛いと云うしかない大きくて小さい望みでした。
そうこうしている間に早稲田高等学院のそばに貸家が出ました。7月の暑い日でしたが、見にいってみると二階建て、車庫付きで六畳が四部屋、四畳半が一部屋、広い台所と風呂場があるというおよそ理想的な一戸建ての家でした。
 家賃も相当に高かったのですが結局それに決めました。夜ともなれば静かなること無響室のごとしと云う訳でまさに云う事なし。当時暗騒音を1dB下げるには100万円掛かると云われていましたので、これだけでも優に一千万円の価値があると悦にいっていました。
 8月の末までには引っ越しも済ませ、仲間も10人に増え、仕事も秋以降の木馬座を中心に万全の態勢で組むことが出来ました。
 9月1日を迎え、充分に睡眠をとり安らかな朝を迎えることができるはずでしたが、ところがどっこい、突如鳴り響いたブラスバンドには思わず飛び起きてしまいました。名立たる「早実」のすぐ隣に引っ越してきたのだから、そんなことは計算の内だったでしょうとは知り合いごとによく云われました。当時は王貞治選手が早実の現役で人気絶頂の頃でしたので、この話をするたびに皆さんには羨ましがられたものです。
 ブラスバンドの音を聞いた時にはその音量に魂消た事よりも、ここでの仕事の前途や段取りを考えたり今後の騒音対策など、当てが外れたことを数えると一寸暗くなりました。

秋の木馬座の公演はヨミウリホールで幕を開けることになりました。
 影絵と人形劇の二本立てだったかと思いますが、出し物は憶えていません。
 PAは小屋の設備を使うことになっているということでしたので用意はしませんでした。当時の拡声用の音響設備の管理は事務所の担当で「表」の仕事でしたから歌舞伎座でも明治座でも開幕前や幕間のアナウンスは「表」の仕事で、音響装置の操作もウグイス嬢が自ら行っていました。ウグイスがいなければ電気部の誰かの仕事でした。
 要するに外部から来た「効果」などには触らせないことになっていたようですが、これは意地悪でもなんでもない。ただ素人に装置をいじられて壊されてはたまらない、「強電」以外は管轄外だというのが当時の電気担当の技術管理者の考えだったようです。
 PAのセットをする段になって電気係氏は倉庫に行き、スピーカーを持ってきました。2S‐305を1台上手に置いて、それだけ。マイクはセリフのアテに4本で、どれも不二音響製の無指向でした。その他に陰マイク1本という構成で操作はどこでやっているのか分からない。後で聴きまわったらマイク毎にカフがあって当事者がそれを操作しているとのことでした。2,3年した所で児童劇団の連中に聞いたら殆どの場合それが当たり前のスタイルだと聞きました。
 その年のクリスマスの公演はサンケイホールだったかと思います。ここで「音研」の岡本さんに出会うことになります。岡本さんは怖いぞと云うのが噂で、そうだとしたら会いたくないなと思っていました。
 実際逢ってみるとこっちは舞台で真っ暗な所に相手は明かりを背にして現れたものですから実際よりも大きく見えた。しかも体育会系の体つきで軍隊帰りときているので相当に覚悟していました。
 当時のサンケイホールは都内でも収容人数や最新の装備を誇り、放送の中継も頻繁に行われるフラッグシップと目されているホールでした。そこの音響責任者だから緊張してもしかたがない。思いもかけず岡本さんには親切にしていただきました。その後は若き日の秀吉を描いた“藤吉郎物語”−題名は定かではありませんが−の音作りを手伝ったり、結構濃いお付き合いをすることになりました。
 岡本さんからは放送用の機材や手入れの仕方、収納の仕方などを教わったり盗んだりしました。
 そのころのヨミウリホールは旧態依然でしたが、サンケイホールは最新の設備を目指しているなど勉強になりました。中継で放送局が入るように受け入れ態勢が整っているホールは殊に全体にしっかりしていることが分かったのもこの頃です。

自動車の運転免許が必要になりました。軽自動車の免許は高校生の時代に取っていましたし、運転のコツは軽自動車を持っている友人がいて、軽も小型も運転の基本は変わらないと教わっていましたから、チョクチョク借りたりして要領を覚えました。
 29歳ぐらいになって免許は軽のまま小型のバンを買いました。マツダの1000tのファミリアでしたが、身の周りには一人も免許を持っているのがいない。車はすでに納車されてニコニコしている。「免許なんかすぐ取れますよ。運動神経も抜群だし」と云ったセールスマンはそれっきりで近寄ろうともしない。それで鮫洲の試験場に出かけました。実地試験を受けることになって試験官は「はい、3人ずつ組になって車に乗ってください。」野球帽らしきものをひょいと取って私たちにお辞儀をしました。僕は最後だったので右の後部座席に座りました。
 「それではコースに入ります。最初のあなたには指示をしますが後の人はコースをよく見てその通り運転してください。では」2番目の人も難なく終えて私の番になりました。
 スターターを掛けてクラッチを踏みこんでギヤをロウにいれ、ブレーキを放してと思った瞬間「サイド」と試験官。サイドブレーキを解いたらエンスト。「君、教習所から来たの。なに、軽で慣れてそのまま試験所に来たの。云っちゃなんだけど基本がなってないの。なに、その脚の形は。」散々でした。結論として、基本からやらねばと思いました。
 いちばん近い小滝橋にあった運転免許教習所に通うことにしました。教習所に行って申し込みをしたところ簡単に決まりました。
 手続きを済ませてから辺りを見回すと妙に静かだ。誰も教習を受けている人はいないし、そう思ってみると人影もない。屯している“先生”の人相もあまり嬉しくない。で、恐るおそる聞いてみると「表の看板を見たろう」「うちは教習所じゃない。練習所だ。」「免許預かりになって看板ごらんのとおり」いまさら金返せというのも云い辛く、さりとて近所には教習所もないので此処に通うことにしました。
 朝の7時から1時間、日曜休みで2週間の約束で、これは良い稽古になりました。聞けば看板を取り上げられた後、最初のお客さんだったらしい。練習のしごきも気が入っていてそのうち気持ちがよくなってきた。最初は小三治に似ているなと思ったけれど、どことなく親しみやすい人の良さが垣間見える程になりました。約束の2週目が終わる前の日、突然、手をつかんばかりに、それこそ丁寧な口調で、この2週間全く失礼なふるまいをしたことなどについて許してほしいと、あの小三治さんに謝られ、これには参りました。
 試験当日になりました。私は自信もついたのか心静か、明鏡止水といった気分で試験場に臨みました。あの時頭が真っ白になって憶えるどころではなかったコースもなんなくこなし、試験官もトンガってはいず、「満点です」と褒めてくれました。
 練習所の先生に最後に云われた「練習は小滝橋でしました。とても親切でした。」をどこかで云わなければと思いながら出口に来てしまいました。案内係の警察官(らしい)人にそう言ったら「ア、ソウ」と人の顔も見ずに云われました。六か月位たった頃ファミリアを運転して小滝橋練習所の傍を通ることがあって寄って見たら更地になっていました。

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