今のワイヤレスマイクロホンを思うと随分と身近になったものだと思います。
私がニッポン放送に入社したのは昭和34年のことで、フジテレビジョンの内定が出てから私一人が、技術局次長からニッポン放送の方が「お前の好きな音だけだから、そっちに行かないか?」と言われて欣喜雀躍して行ってしまったのです。
このことは後でも、私の人生の中でもとてつもない幸運だったなと実感したものです。
その中で、ワイヤレスマイクは難物であったけど面白い経験でした。
法的にはラジオマイクと呼ぶとは知る由もなかったのですが、40MHz帯に4波存在して1/4λの長いアンテナを持って中継に行ったものです。アンテナの設置場所には苦労しましたけど。
その時の局(JOLF、略してLF)が4波所有するものはかなり安定度の良いものだったけれど、それでもナマ放送のときはヒヤヒヤもので都体育館での歌謡ショーのナマ中継の時はボーカル用のワイヤレスは、キャリアが飛んでしまった時を危惧してアシスタントに有線マイクを持たせて舞台袖にスタンバイさせたものです。
でも、このとき別のアクシデントが起きてそんな恐怖が飛んでしまいました。
当日の主の女性歌手が風邪を拗らせて全く声が出ないという事態になってしまい、とっさに私がアイデアを出して、急遽所属のレコード会社から歌入りのテープを車で公開放送の会場まで急送してもらって、そのテープを再生して指揮者と歌い手には口パクで合わせてもらいましたが、スタッフですら誰もが気が付かないほどの完璧さでナマ中継も無事終了したのでした。
ただし、会場に集まったファンがもし注意深く聞いていたら「ステージに並んでいない三味線が聞こえるのは何だ?」となったでしょう。
今ならキーボードで三味線を作っているのか、と思ってしまうでしょうが。
昭和52年に電波法が改正されて、40MHz帯は実用的ではなくなってしまうことが判り、全国ホール協会の技術顧問もしていた私は焦りました。
紆余曲折はあったものの現在のA帯が決まってほっとしました。
しかし、それが既成のホールでどこまで受け入れてもらえるかが心配で、ホール協の技術講習会で何回もアッピールしたり、島根県民会館での公文協中国四国ブロックがわざわざこの為の講習会の講師として招かれたときに特ラ連との関係など半日しゃべりまくったことが今でも懐かしく思い出されます。
その後、安定した導入が進みその使い方の功績賞まで作られて、私の尊敬していた川越市民会館の(故)山下さんが賞を受賞したのも嬉しかったりしました。
若かりし頃の私のワイヤレスマイクの想いからみれば、妨害電波の恐れはわずかにあるものの有線マイクと何ら変わらずに多用されていて、ワイヤレスマイクがその当時にこのようなものであれば、それほど制作現場で気に病むこともなく、数年寿命が延びたかもなんて不遜なことをつい考えてしまいます。