先月までは私の潜伏期間ともいうべき、運動会なら障害物競争のような、借り物競走のような日々についてお話しして参りましたが、これが実は何にも替えがたいコヤシになりました。
普通に大学を終えていれば社会人となって既に7年にもなるだろうと思えば、就職先も思いあたらず、かといってそうそう「音」の仕事もあるわけではないし。
何のことだったか憶えていませんが、所用で銀座を歩いていた時のことでした。数年前に学生芝居につきあったことがあったことは前にお話ししましたが、そのとき制作だか演出だかをやったM君とバッタリ出会いました。これは偶然としか言いようもないのですが、なにしろバッタリ出会った。あの時踏み倒されたのを返せというべきだったのでしょうが、励ましちゃった。安心したのか近況の話になりました。学生時代の調子の良さに磨きが更に掛かって、「先輩、コマのことわかる?」ときた。「CMのことだけど、もしそれがわかるのなら話が早い。ちょっとすぐそこに試写室があるんで寄ってくれませんか」。「扇風機のCMなんだけど演出がうるさくて」歩きながら、話しながらD映画社についた。演出さんとの打ち合わせは軽く終わって翌々日だったかのダビングもスムーズに行きました。学生時代の「借り」は仕事で返しますという話はトントン拍子に実現したかに見えましたが、働かなければならないのはわたしですから「?」の感じはなんとなくありました。がその後はCMの数は結構増えて忙しくなりました。
そうこうしている内に、先号でお話ししたNTVの音効をしている一人から芝居の音のオペレーションをやってくれないかという話がありました。この話は日頃気に懸っていたことなので一も二もなく引き受けることにしました。
演劇の「効果」は気になっていたのですが、先生に連れて行かれた劇団しか思いつかないことや自分で決めたルールのこともあって諦めかけていた所でした。
その劇団は始まって間もないことや、世のしがらみを気にしなければならないほどまだ育っていないことなど聞くうちに、気楽にお付き合いできそうだと思いました。劇団の名前は「俳小」と云いました。映画館の新宿文化が夜の回の終了後、芝居をやりたいということで計画しているのだとか。芝居のタイトルは「カーブ」でした。内容は覚えていませんが、難なくこなせたような気がしています。その後はそれこそ立て続けで忙しかったこと、目が回るような毎日でした。
この仕事を持ってきてくれた人はNさんと云いますが、私が彼と知り合った時は効果の仕事は全く初めてだったのに、もう十年もこなしているかのような雰囲気でした。演出家と話している時も、音を作る時も充分貫録をみせていて、これにも感心させられました。また作る音もプランも要領を得て的確でしたのでこれにも圧倒されました。ただ彼はテレビの仕事が忙しく、芝居の方の後釜を探していたらしい。
本当の意味で社会に出ることになったのは結局1964年のことだった。
第二の人生はCMに次いで芝居から始まることになりました。考えてみれば全く「運が良かった」の一言に尽きるのかも解りませんが、大学を終えるのが暦通りだったら、29歳にもなって失業することにならなかったら、今の私はなかったと言えるでしょう。
自分勝手な言い方になりましょうが、―その時は微塵も思わなかった事ですが―いまにして思えば、皆さん一足先に社会に出て修練、研鑽に励んで私の足場を作ってくれたことになります。感謝しています。
本当に忙しくなって考えたことは「会社にしなくては」ということでした。前の東京電子時代に社長さんが「会社にして良かった」とフト漏らした一言が気になりました。そうか、計画的にすべての事を行うためには、この時すでに一人いたバイトの給料もきちんと払うためにも会社にしなくては、会社でなくてはいけないんだ、と結論しました。で妻の親父さんにそう相談したところ、早速全くピッタリな人を紹介してくれました。浦和の税務署で労働運動をして辞めざるを得なくなった人で凄く頭の良い、正義感溢れる人でした。この方とはその後ずっと、先年お亡くなりになるまでご指導いただきました。
1965年に「有限会社サウンドクラフト」を設立することが出来ました。実質、社員は私と妻の二人きりのスタートでした。私は営業と技術を受け持ち、女房が経理を担当することにして会社の体裁を整えました。
会社の最初の仕事は「金繰り」でした。銀行に出かけたら「最初は自分の力でおやりなさい」。これを励ましてくれていることなのだと勘違いをしたのだからオメデタイ。知り合いや親戚を駆け回って「計画」や「成算」や資金計画やら説明しなければならない事など「どうして会社にしよう」と思ったのだろうと反省の連続でした。
こんな混乱のさなか、舞台監督を仕事にしている人と新宿の飲み屋で知り合いになりました。その一谷さんの話は「音響」が出来るグループを探しているんだけど、だれか心当たりはないか、ということでした。
木馬座との出会い
紹介された木馬座に行くことにしました。目黒にあるその劇団は藤城清治さんが主宰されている劇団で影絵を主に上演しているという話でした。話には聞いていましたが、その影絵も見たことはなく、どうせ「こじんまり」としたものに違いないと思っていました。ところが、着いてみると大勢の人が立ち働いている。藤城先生は?と聞くとあちらの本館に行ってくれとのことで、そちらで聞くと今お出掛けになっているのでいつ帰るのかわからない。そこに小柄なおばちゃんが通りかかったので仕事の段取りは誰に聞いたら良いのかを尋ねたら、「それは私が聞くわ」「あなた、何する人?」「スピーカーなんか貸してくれるの?」「音も作れるんだ。」ことによったら“いっちゃん”の云ってた方?―結局一人で納得したかに見えるおばさんでした。しかしこの人が後で知ることになる北さんでした。
北さんは非常に優秀な方で木馬座の大所帯を一人で仕切っていた。芥川の小説の「芋粥」を思わせる光景でした。その日の打ち合わせは影絵ではなく縫いぐるみ人形劇のことでした。
東京と大阪で同時にやりたい。出来れば来春、五都市で同時に上演できないかという話で正直正面から受けて立とうじゃないか。これは受けがいもあるし、飛躍のチャンスだと思いました。その後の木馬座の公演はすべて受けよう。手抜きや力及ばずで下されることは絶対避けよう。その頃はバイトも入れて8名程度になっていました。自分のところでテープの録音編集、プリントも出来るようにしました。
木馬座の良い所はセリフが「生」だったことです。セリフがナマだからアドリブが利く。動きはセリフを当てる役者と打ち合わせをしっかりすればよい。この頃の「声」を受け持つ役者は融通無碍、全編アドリブだらけでも持っちゃうという人たちが揃っていた。だから縫いぐるみに入る役者は大変だった。タダでも真面目、でないと動きを決めることはできないし、と云う訳で同じキャラクターの「声」と「縫いぐるみ」が揉めるのはしょっちゅうの事でした。音楽は、いずみ・たくさんで殆どがオリジナルでした。同時五都市で上演でしたから録音したものを5組用意しました。レコーダーは3台、ミキサーはマイク8チャン、ライン4チャン、アンプとスピーカーは劇場にあわせて、適宜に用意しました。いつの間にか大きな倉庫が必要になっていました。
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