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八幡 泰彦


1961年秋からの4年間は、目まぐるしかったことこの上ない年の連続でした。先号で触れたように研究所を離れるからには先生の畑には踏み込むことなく、自分の畑は自分で探そうと思っていたのでしたが、これも「東京電子」に出会ったことでスムーズに解決しました。今考えると先様には相当強引に頼み込んだことではなかったのかと恥ずかしくなりますが。
この第二次東京電子時代は学生時代とそれにダブった園田音響演出研究所の経験がとても役に立ちました。テープの取り扱いや編集の仕方や知識や多少専門的な経験も重宝されたように思います。

SABA Player

年が明けて春先のことでしたが社長さんが展示会に参加するべくヨーロッパに出かけ、その土産に“SABA”というブランドのテーププレイヤーを買ってきました。
 機械式でしたがボタンを押して流れた音楽の豊かな音質に驚き、さらに初めて見るカートリッジに納められたテープには度肝を抜かされました。
今会社の現行機種の主力である3インチリールのテープの5分の1以下の質量で、テープ幅は8分の1、送りのスピードは半分、演奏時間は一時間、すべてに新しい規格の誕生を予言するものでした。(このカートリッジはやがて1年後にはコンパクトカセットとして登場し、あのウォークマンとなります)
 この頃から会社の姿勢は変化を遂げるべく準備をし始めていました。しかしそのことは私たち現場にはなんの気配もなく「日々の作業を注意して」「無駄を排して能率の向上を」などを合言葉に明るい雰囲気でした。それでもSABAに使われていたカートリッジの規格についてレポートを出すようにとか、ワウ・フラッターの軽減についての提案とか、ZD運動(無欠点運動)についての研究会など矢継ぎ早やに提示されるテーマには追いつくのが大変でした。ある時は品質管理を命ぜられ、ある時は頻発するロットアウトの交渉に門真まで行かされたり、要するにピンチヒッターとして忙しい毎日を送っていました。

1963年のある時、工場の窓からふと見上げた空にセスナと思しき軽飛行機が輪を描いているのに気が付き、眺めていると五輪マークになった。そういえば何カ月か前に録音関係の知り合いから電話があって10月頃のスケジュールを聞かれたことを思い出しました。その東京オリンピックの開催だ。しかし昔のことを考えることもなくボンヤリと飛び回る飛行機たちを眺めていました。

この数ヶ月前から私はインピーダンスローラーのバラツキ対策に追われていました。これはテープレコーダーの回転ムラの軽減化やテープ送り速度の安定化をはかる主要部品で、いわば心臓部に当たるものです。直流モーターの軸をこのローラーに焼き付けられたゴムのタイヤ部分に直接当てて駆動するようになっていましたが、このゴムの摩耗が激しく不良事故の報告が急増したのでその対策を、とのことでした。
 新型のモーターのトルクが上がったことが原因の一つだと思いましたが、そんなことは言っている余裕などない程の緊急事態でした。とはいえ「ゴム」のことなど全然知らないし考えたこともないので、途方に暮れるしかなかった。取りあえず会社近くの本屋に行ってゴムについて調べようと思ったけれど、そんなことで埒があくわけでもなく、ゴム製品を扱う会社を訪ねたり神保町の化学書専門の書店を覗いたり、まるで夢遊病者のようでした。
 そのうちに加硫は温度や時間によって様子が変わること、かけすぎるとベークライト状になって安定すること(取り返しがつかない状態になってしまうこと)が分かりました。次いで製造工程を調べなければ、ということになりました。これがまるでお化け屋敷に迷い込んだ様で雲を掴むみたいなものでした。
 〈ゴムを扱う会社〉と云うのが、始末が悪い。「仕事次第で下請けさんを選んでいます。」「その下請けの選び方、発注先の選択肢をどのくらい持っているかが勝負どこです。」要するに、お前さん如きに分かるものかと云っているに違いない。
 何くそと云う程の覚悟なんてものは生来持ち合わせてはいないものの、〈じゃ、調べてみよう〉といった程度の好奇心はありましたので、ゴム屋のお世話にはならずにあちらこちら訪ねて回ることにしました。そのうちに、ゴムには天然ものと合成ものがあることが分かりました。
 合成物は物性的に優れてはいるものの高価な事、天然ものは安価であり物性的にも問題ないがバラツキが多いことが欠点であるとしてあげられるがこれらの特性をバランスに掛けつつ選定するのも技術の一つだと知りました。そこで件の〈ゴム屋〉に戻って加硫を施している工場を教わり訪ねることにしました。

加硫工場といっても窯が2基程度の小さい所で都電の線路の向こう側は埋め立てで、その先はすぐ海と云った場所でした。そこで菰俵から材料となるゴムを取り出し、それにローラーに掛けて硫黄とカーボンの粉を混ぜるところまで、ほとんどの工程が「勘」で行われていることを知りました。「勘」で行うことは、「名人芸」であることよりも生産性の問題で、1日3千個こなすには必要なことだそうです。このローラーに掛けながらゴミを取り除く作業も同じ理由からだと分かりました。「混練り」というこの作業も工程分析の結果ではなく、工賃の割り出しからの結論であることを知らされるに及んで、この後の方針の決め方には悩まされました。

東京電子に再就職してから間もない頃、基盤のハンダ付けに問題が発生したことがありました。ベルトコンベアの最後に検査工程があるのですが、ここからのデータでは原因個所が散発していることが分かっても手の打ちようがない。そこで解決策としてハンダ不良とされた基盤は外注に出して修理させることにしました。この理由としては、コスト意識を植え付けること、検査基準を厳しくすること、この観点から採用したのですが、これはやがてそれを引き受けた外注先と費用の点での問題が発生し、物別れに終わりました。しかし不良問題は工程の見直しや工法の改善などの結果解決したようです。

ゴム問題は、加硫窯を、ストップウォッチ片手に焼きあがった製品の硬度むらについて、調べることにしたのですが、これがまた手掛かりもなく途方に暮れてしまい暗澹たる気持ちに襲われました。工場の技術部に顔を出すべく二階の階段を上った所の窓をふと見上げた眼に入ってきた光景が五輪マークだったわけです。

技術部はモーターの新製品で持ちきりでした。「モーター軸は研磨したてのように輝いている。軸そのものがキャプスタンとして立派に使えるしワウ・フラッターも充分実用範囲に収まっている」。やわらかな棒で気を失うほど叩かれた気分でした。
 この話を聞いて私が受けたショックは“私の知識や技術はもう今後通用しなくなるだろう”というものでした。小賢しい知恵はその場の凌ぎでしかあり得ない、東京電子は次の時代に入っているのだ、さらにはこの儘いてはWさんほか恩義のある人に迷惑がかかるというところに行き着いて、辞めるべきだと決心しました。
 技術部長であったWさんには充分解って頂いて翌年の春に東京電子を辞めました。辞めた後どうするのか皆心配してくれましたが、後の事よりも迷惑をかけることの方が辛く、ましてや後の当てがあってのことでは、自分が情けなくなってしまう。そんな気持ちで一杯でした。

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