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八幡 泰彦
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私の来た道筋について話しましょう。それはこの稿を読んでいただける方の何かの足しになるかと云うよりも、私としていまだ嘗てしたことが、しようとも思わなかった半生の反省を、繰言になりますが、まあぼちぼち始めます。
1 1936年から1950年まで
生まれたのは昭和11年(1936年)で、丁度二二六事件の起きた年でした。そのことは母のおなかの中にいて知るわけもなかったのですが、激しい時代に突入してしまった真っ只中に生まれたことになります。小学校、当時は国民学校といっていましたが、その三年生のときに戦争が終わりました。学童疎開に行ったり、防空壕に入ったり、焼け跡に宝探しをしたり忙しくも面白い日々だったような記憶があります。空襲があり、周りが焼け跡だらけになりましたが、奇妙なことに恐かった憶えはありません。生まれつき楽天的な性格だったのでしょう。
音の記憶は、1946年に戦争が終わった翌年の春、廊下の出窓においてあった蓄音機に触ったのが最初でした。据え置き型のゼンマイ式で、サウンドボックスにはレコード針がないまま、レコード盤が一枚かけっぱなしで戦争中ずっと忘れられたままになっているものでした。クランクを廻してみると回りだしたものの、針がないから、かけようにもかけられない。楊枝を廻るレコード盤の溝に当てたら何か音が聞こえたので、更に楊枝の軸を古葉書に押し付けるようにして見たら少しながら音楽になった。山田耕筰の「慌て床や」だと判った(レーベルに書いてあったので)時には深い満足感に浸ったものでした。それは多分疎開から帰った翌年の春だったと思います。
その後少年は好奇心のかたまりで、野口英世の伝記を読んだら医者になる事に一所懸命になり、外車が街を走るのを見れば名前と年式を当て、挙句の果ては自動車の運転手を神と思い、ウォーターシュートの先に乗ってる人が飛び上がるのに感心したりで方向定まらぬ、憧れいっぱいの支離滅裂状態で中学校に進みました。
2 1950年から60年代
1950年に差し押さえが来ました。
不思議な差し押さえでした。もっと高額な家具やミシンもあったのに持っていかれたのは戦時型のナナオラの並ヨン一台だけでした。それこそ国民何号と称していた簡易なもので、あの日、八月十五日に縁側に持ち出し、近所の人たちが集まって終戦の詔勅を聴いた事でそのラジオのことを憶えています。蝉の声も、強い日差しも戦争が終わったことを知った途端、突然叫びたいほど嬉しかった。そばの焼け跡にあった三角壕舎に行ってみると先だってまでいた兵隊さんもいなくなり、飯盒がひとつ蓋をなくして転がっていました。かぼちゃ畑も静まり返っていました。家に帰ったら縁側にラジオが置きっぱなしになってぽつんとしていました。
そのラジオだけを持っていかれたのですが、私はその差し押さえの理由を聞こうとも思わず、またプライドにも触らなかったのは“取るに足らないことだ”と云うような親父の態度がそう思わせたのかもしれません。「作ったらどうだ。どうせならそのほうが勉強にもなるし」と云う言葉が次いで出て、大した覚悟もなしに作ってみた。三田無線のデリカと云うブランドで、8インチのフィールド型のダイナミックスピーカーを12Aでドライブする並ヨンでしたが出力が足らず、スピーカーに耳を着けてやっと聞こえる程度の音量だったものの、その生まれて始めて聴く妙音に聞き惚れたものでした。それは近所のお兄さんが手持ちのパーツで組み立ててくれたもので、自作とは言いがたいものでしたが、これがきっかけになり、後で五球スーパーにチャレンジすることになります。最初色々教えてくれたお兄さんは忙しくなって構ってくれなくなりました。配線図が読めなくちゃ駄目だと言われ、本屋で「初歩のラジオ」なんて本を見つけて立ち読みしたが、さっぱり要領を得ない。ページを繰ると実体配線図というのが眼に飛び込んできた。見ると超再生ポータブル、高感度とありました。これにしよう。
その頃の映画館はいつも満員で、悪餓鬼としてはこれ以上の娯楽はなく、映画ならなんでも良かった時代でした。週に一回の日曜日には常連の友達と二番館や三番館に行ったものでした。二番館は二本立て、三番館は三本立てというのが多く、三本立てとなると七時間ほどかかる。要するに“良い子”の行くところではないのだけれど、値段の安さと上映本数の魅力には抗し難い。そんな映画の中で、「銀座カンカン娘」というのがあった。この映画の中で高峰秀子が膝の上に乗せたポータブルラジオを聴きながら拍子をとりつつ人を待つシーンがありました。ラジオがアップになるとNAKAJIMA
RADIOと読めた。日本製ではないか。しかも音質の良いことと言ったらまるで外国製だ。(当時の少年にはアフレコなど考えも及ばなかった。)B6版の本ぐらいの大きさで、格好が良かった。
ポータブルラジオといえば進駐軍のGIが持っているのを見かけたことがあった。鰐皮のような外装でゼニスとかモトローラとか言うメーカーのオールウェーブで、小型のトランクぐらいの大きさで、蓋を開けロッドアンテナを伸ばして聴く、重そうなものを凄いなと思いつつ眺めたものでした。
109Cという直熱の双三極のST管を一本使ったレシーバーで聴くラジオで、実体配線図も丁寧な記事でした。安全を期して大き目の蓋付きの箱に蝶番を近所の指物屋さんに付けてもらい、スパイダーコイルを蓋の裏に組みつけるようにしてスタートしたのですが、一ヶ月ほど組んず解れつ、すったもんだしましたが、全然ものにならなかった。そのうちに箱は半田で焼け焦げだらけになるし、パーツは足が取れたり、ラグ板は壊れる、電池は放電するなど、丁度その頃電機大に通っている五つぐらい上の人と知り合い、診て貰ったら、コテンパンに駄目を出されて、結果放り出してしまいました。この体験は「恥を忍ぶ」という意味でよい教訓を得たのではないかと今にして思うことがあります。
そのどたばたを見かねたのか父がチャンと作ったらと五球スーパーのキットを買う資金をくれたので神田小川町にあったエコー商会という店に行き、基本を勉強することになりました。約四千円で、今にすると十万円位になるでしょうか。
一番安かったST管なら6WC5-6D6-6ZDH3A-6ZP1-12FKスピーカーは6.5”というラインナップ、勿論箱はダイヤルや摘みの穴は開けなければならず、全ての組み立ては自分でやらなくてはいけないものです。当分穴あけは指物屋のおじさんの厄介になることにしてスタートを切ることになりました。ま、独り弥次喜多の始まりです。
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