2015年3月1日 第143号  前 目次 次
ちょっとブレイク

 むかし友人たちと面白い遊びをやった。50年ほど前のことだ。4、5人で飲みながら映画の題名を一人が言うと、次から次へ監督、カメラマン、シナリオライター、作曲家、主役、脇役……と名前を並べていくのである。
 一人の友人を除いてほとんど同じレベルだった。除いた一人は驚異的な記憶力で誰も敵わない。
 彼は某大手広告代理店のディレクターで、ある雑誌が「こと映画に関してはまさに生き字引だ」と書いていたのを見たことがある。
 しかし人間には限りがある。残念ながら彼の話からは、その映画の本質が見えてこないケースが多かったのである。彼の独演がはじまるとまわりはニヤニヤする。あまりに固有名詞が多く肝心の中身が希薄なのだ。
 良き時代であったがお互い仕事は忙しく、彼との付き合いは付かず離れず、というと男女の仲のように聞こえるだろうが、ずるずる続いた。
ある時、コーヒーを飲みながら、例のごとく映画の話をしていて気付いたのは話によどみが見えたことだ。つまりなめらかでなくなった。忘れ物をしたような口調だった。はやい話が、この文のタイトルのように、ど忘れ現象に悩んでいるようであった。私にもその 徴候が見えかくれしていた時期である。
話しながらその忘れ物にたどり着くまでが大変だった。彼の話は代名詞の連続で、「ほら、あの映画の監督が作った、なんだっけ、あの映画の前のヒット作がさ……」と結局なにを探していたのか忘れるほどであった。私も同程度なのである。あの生き字引とまで言われたストックはいったいどこへ消えたんだろう。
 しかし世の中はうまく出来ているものだ。そうこうするうちに彼はプロの映画評論家になり、本業と脇の評論家をうまく両立させたのである。今度はほかの友人たちも彼の力量を認めるようになった。その彼は3年前に突然死んだ。名前を出せば、映画好きの人なら知っている男である。
 むかしの友人たちとのバカ話を思い出したのは、先日、新聞で読んだ外山滋比古の話からである。
頭は知識をつめこむ倉庫にするのではなく、創造するための工場にせよ、というのだ。
死んだ友人はそれを実行したのではないか。
 人間、寝ている間にどんどん忘れる、それは忘れてもよいものなのだ。さらに残ったものを整理して、いらないものは捨てていく。そうすれば新しい思考、発想が生まれる環境が整う、というわけである。
 ど忘れは大変結構なこと、整理力が増すことである、というわけだ。
 悪しき教養主義よさらば、である。中高年諸氏、どんどんド忘れしましょう。
 ストックはコンピューターにまかせればよいのだ。

一老人




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