話は50年以上昔にさかのぼる。
時代の寵児ともいうべきアート・ブレーキー&ジャズメッセンジャーズの初来日コンサートが東京サンケイ・ホールで実施された。
ラジオ局勤務の小生は、自分の局でその実況を録音して番組化するときき、是非ともその録音を担当したいと申し出た。その結果、入社間もない若造に、普通ならまわってくるはずもないメイン・エンジニアの仕事を割り当てられた。思わず“やった~”というところである。
1961年1月2日。初日の実況を収録することになってソワソワとプランを考えはじめたときは、それまでの経験をベースに高音質にこだわって、フロント(tp:リー・モーガン、ts:ウェイン・ショーター)にはコンデンサーマイク(ソニーC-37か、ノイマン49など)を使用するプランを考えたが、先輩ミキサー達に猛反対された。
当時コンデンサーマイクはノイズの巣のように思われていて、先輩曰く“大切な収録で、録りなおしがきかないライブのステージなんだから、ノイズが出たらどうするの?.....ノイズフリーのリボンマイク、信頼度の高いRCA-77DXにしなさい.....”というわけで、フロントの音質がプランのイメージと著しく違うことになった。
この話は考えてみれば、かけ出しの若造がメインのミクサーとしてやるのだから失敗のない無難な方向に先輩は老婆心からすすめてくれたのか.....はたまた? そこで他の楽器も77DXが主流となり、ボビー・ティモンズ(p)にも77DXを一本(その時代には外録用のブームスタンドなんかなかったので通常のセット)、ジミー・メリット(b)にも77DX一本。A・ブレーキー本人(ds)にはソニーの37AだったかC-17だったか.....を一本というラジオ局らしいセットとなったと記憶している。
それでも77DXには低域特性のセレクトが3ポジション、パターンのポジションが6ポイント、という各種のコントロールが可能であり、それらを組み合わせることで、イメージに近づけることもできたと記憶している。
さらに幸運だったのは演奏のバランスの良さに恵まれ、フェーダーは一回セットしたまま殆どバランスのくずれることもなく、後年LPレコードとして発売されたときにも、けっこう高い評価をいただいた。さらにもっと後になってジャズらしい線の太い音になっているという評価をもらい、自分でもそう思うようになったが、これもリボンマイクを考えられるかぎり有効に使ってイメージした音に近づけたからだと思う。
EQもないエフェクターもなしのフラットな古典的MIX卓で、これだけまとまったのも、リボン・マイク主流の収音だったからなのかも知れない。
フロント(tp、ts)がリボン・マイクなので、リズム(特にds)のカブリがおさえられ、さらに、全体が大音量のナマ音にも耐えて、コンデンサー型とは違う線の太さが得られたとも思う。 77DXメインというのは大正解だったと考えていいのかも知れない。