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第29回

ジャズは楽しい

阿部 次郎


少年時代
大野(以下O) 阿部さん、形式ばって恐縮ですが、お生まれはどちらですか?
阿部「以下A」 信州長野の小諸です。
小諸ですか、いいところですね。また信州という言葉のひびきもいいですね。私は新潟ですのでなんとなく見えてくるようです。
阿部さんの少年時代はどのようなものでした?
ラジオ少年でした。高校時代は放送部におりまして録音機に毎日のようにふれていました。もっともスタジオで使うコンソールタイプではありません。高校のころ仲間たちとハンダゴテにぎりながら、こっそり学校のアンプを改造しようとしましたが始末におえなくなって先生にどなられたことがあります。仲間にラジオ屋の息子がいて真空管を持ってきてパワーアップしようとしたんですが、いい加減な知識しかなく結果は無残でした。
面白そうですね。先生が阿部さんたちを信頼して機器類の管理をまかせていたんでしょう?それであとはどうなったんですか?
結局、ラジオ屋のおやじさんが出てきて、完了です。
結構な少年時代でしたね。高校を終えてからは。
次男坊なものですから気楽に東京へ出てきたわけです。
次郎という名前は次男だったからですか。
そうです。兄は太郎です。
これはこれは、絵にかいたような兄弟ですね。
聞き手    編集 大野

 昭和21年生まれ、現在60歳になります。録音の仕事がほとんどで、ずいぶんいろいろな録音をしました。30数年間の現場体験の一部ですが書いてみたいと思います。

アルバイト、大学時代
 東京へ出るからには、飯代くらいは稼げと親父にいわれ、親戚の人の紹介で池袋のソバ屋でアルバイトして、大学へ通う、という生活でした。学部は文学部でした。それまでは小諸の実家でのんびりしていたのが、せまいアパート住まいと働いたお金で飯を食う、時にはソバ屋で食べさせてもらう、という急激な生活パターンの変化に当初はとまどいましたが、半年もしたら慣れっこになってしまい、時には映画を見たり、喫茶店でのんびり、などということも出来る余裕も出てきました。

貸スタジオ時代 初めはダビング
 お世話になったソバ屋さんと別れて一本立ちすることが出来ました。
 そば屋で知り合った人の伝手で、銀座のある録音スタジオの入社試験をうけ、無事うかりました。高校の放送部時代から録音に興味をもっていたんです。そのスタジオは、いわゆる貸スタジオで、音楽録音スタジオ一つ、ダビングスタジオ(現在のMAスタジオ)二つ、それとちょっと離れたところに撮影スタジオもあり光学録音も出来るという、大手の部類にはいる会社でした。最初はダビングスタジオ作業の手順から説明されたのですが、言葉を理解するのに時間がかかりました。35ミリのフィルムをかけることから教えられ、ブツ(サウンドネガフィルムと画ネガを編集の時シンクロさせるキッカケ信号〜ブツッという音からきているらしい)をひろうためのエマルジョン側をけずるのにコマ数を間違えたり、ベース面をけずってしまって、怒鳴られながら汗をかきかき作業していたのが、1年もたつと後輩におなじことを教えるくらい、とりあえず成長しました。
 映写室へ入っていると暇そうですが、大変忙しく、タイプの多い作品ですと、共通カットがあり、それをプロダクションの制作さんと二人で入れかえたり、シンクロ(フィルムの長さをはかる機械)で尺数をはかったり、つなぎ代えしたりデルマ(ダーマートグラフ)でサインし直したり、まるで戦争のようです。つなぎ代えはアセトンでやりますから、元にもどすことを考えておかないと、大変なことになります。後年、テープでつなぐようになり、信じられないくらい楽になりました。
私は自分で言うのも変ですが、カットを覚える特技があり、ディレクターが指示するカットがどのへんにあるかすぐ対応出来て、びっくりされたことがあります。一年半くらい経ったころ、録音ミキサーの助手にしてもらい、映写室から開放されてほっとしました。
 ダビングスタジオにはテープレコーダーが6台あり、朝一番にやる仕事は、掃除でした。テレコのヘッド掃除、パネルの拭き掃除、周辺に落ちているテープのくずを一枚一枚拾い、きれいにして朝一番のお客さんを待ちます。
 スタジオでは、最初はヘッドホーンでダビングテープのモニターをやらされ、ライン回路を聞くのではなく、プレーバックを聞くのですから参りました。つまり遅れた音を聞くわけですから、頭が混乱し、非常に疲れました。
 徹夜もけっこうやりました。朝帰りで夜また出てくる、という日が続いたこともあります。でも仕事が面白くあまり苦にはなりませんでした。録音作業はほとんどがTVCF(TVコマーシャルフィルム)で、ときには短編フィルムもありましたが、私はTVCFが楽しみで、なるべくそれをやる班に組み入れてもらいました。
 出入りのフリーのミキサーともすぐ仲良くなり、ずいぶん教えられました。マイクの位置、角度、距離などは、ナレーターの声量とどのような関係にあるか、子音の強い人はどうするか、など実地に教えられ大変参考になりました。私が25歳くらいの頃です。
 この時代にコマーシャルのコピーライターの人たちと知り合いになり、コピーのコツみたいなものを吸収することができました。この時代を振り返ると、ロバート・レッドフォードが監督した「A River Runs Through It リバー・ランズ・スルー・イット」を思いだします。牧師の父親が息子の文章力をアップさせるために、どんどん文章を短く書かせ、最後には捨てろ、というシーンです。アカデミー撮影賞をとったあの映画は素晴らしい作品ですが、なぜかあのシーンだけが強烈な印象で残っています。コマーシャルコピーというのはそうやって作られるのではないかと思います。

貸スタジオ時代 音楽スタジオ
 入社して3年くらい経ったころ、新人が4人入社し助手の配置換えがあり、私は音楽スタジオの助手となりました。50坪くらいのスタジオで、30人編成くらいの録音ができるスタジオでした。ここでの経験が私のその後を決定したようです。
 ダビングスタジオと違う点は、マイクロフォンの数が多いことは勿論ですが、関わる人種が違うということです。作曲家、編曲者、指揮者(作曲家が指揮する場合もありますが)、ミキサー、ディレクター、ミュージシャンを集める人。コマーシャル音楽の場合はプロダクションのプロデューサー、クライアントが2,3名、ディレクター、あるいはフリーのディレクター、代理店のプロデューサーにディレクター、時にはダビングミキサー、きっと大事な役目があるのでしょうがなぜこの場にいるのか分からない人たち、等々。またそれぞれに助手がいる場合もありますから、現在の音楽スタジオの調整室とは違い、せまく人があふれるようでした。
 私は、マイクをセットしたり、テープレコーダーの調整、といってもバイアス調整などはやらせてもらえません、せいぜいテープをランニングして調子をみる程度でした。
 当時はまだマルチレコーダーが普及していませんでした。6ミリテープにダイレクト録音か、カラオケを録って歌かぶせなどがほとんどでした。アンペックスの4chがありましたが、テープが高価なためあまり使わず、数年後マルチの16chが入りました。
あるとき、オーディション録音があり、ピアノトリオにヴォーカルという基本的な形の仕事が入っていて、マイクはヴォーカルに87、ピアノ47×2、ドラムス451、37×2、RE20、ベースRE20をセットして待機しておりました。しかし予定していたフリーミキサーがどうしても時間のやりくりがつかず、私がピンチヒッターでやることになりました。会社には音楽録音のミキサーはいたのですが、プロダクションから助手の指名があったので待っていたところだったのです。
 基本的なマイクセッティングで見よう見まねの録音をしましたが、結構自分でもうまく録れたと思ったら、音楽プロダクションのディレクターからほめられて、これの本番もやってみよう、と言ってくれました。この時は本当に嬉しかった。
 そのようなことがあってから、少しずつ音楽録音をやるようになり、すっかりとりこになりました。

ジャズ喫茶時代
 いつもミキシングにやって来るミキサーにMさんという人がいて、ちょっとした空き時間にジャズの話をよくしてくれました。ウィントン・ケリーやレッド・ガーランド、ビル・エバンス、ソニー・クラーク、ちょっと傾向はちがうけどオスカー・ピーターソンなどを聞いておいたほうがいいよ、と言われましたが、私は学校の教師である父の影響でクラシック音楽オンリーだったのですが、少しずつジャズも聞くようになり、Mさんに銀座のジャズ喫茶へ連れて行かれてすっかりはまってしまいました。
 ある時、銀座8丁目の夜はバー、昼間はコーヒーが飲める店へ行った時、偶然でしたが渡辺貞夫クインテットのライブ録音中で、ミキサーが半田健一さんでした。こんなチャンスはめったにありません。ミキシング中の半田さんの手ばかり見ていたのを思い出します。半田さんがCBSソニーにおられたころで、今は大学教授で院生を指導されているとMさんにお聞きしました。
 Mさんは不思議な人で、会社員なんですが、よくミキシングに来ていました。会社はTVCF(現在はTVCMと言っていますが)の制作会社で、自社の作品の時はほとんどMさんがミキシングし、いろいろのスタジオをまわっていたようでした。ジャズピアニストとしても有名な八木さん作曲の東映の映画音楽などもミキシングしており、雰囲気が違うのでお聞きしましたら、これはアルバイト、と笑いながら言っていました。八木さんの作曲はほとんどミキシングしていたようで、ディレクターがMさんのリズムの録り方はいいね、といつも言っていました。休憩時間になるとMさんはスタジオの中で、サックスの宮沢さん、ペットの伏見さん、ピアノの松岡さん、ドラムスの猪俣さん、時にはジミー竹内さん、ギターの中牟礼さん、ベースの柴田さん、稲葉さんなどと岩魚釣りのはなしばかりしていました。また、Mさんの仕事にはこの人たちが集まることが多かったようです。多分、八木さんの指名だったと思います。このグループのボスは宮沢さんのようで、その頃、いわな、という曲も書いています。ミュージシャンと対等に趣味の話ができるMさんをうらやましく思いました。それをMさんに言うと、これも録音のうちさ、といっていましたが後年、この意味がわかりました。つまり、ミュージシャンと仲良くなり、リラックスさせていい演奏を引き出そうとしていたようでした。Mさんの仕事はジャズの色の濃いものが多かったようです。
 Mさんと行った銀座3丁目のジャズ喫茶、69(ローク)は黒塗りの店で、そこはまさにジャズファンのメッカでした。しかし割合短期間で閉じてしまったようです。
 69ってどういう意味ですか、と聞くと黒(黒人)の逆さまだよ、と教えられ、なるほどと感心しました。ジャズミュージシャンがさかさまにして言う言葉をMさんから教わりました。ビールがルービ、ピアノがヤノピー、トロンボーンがボントロ、女の子がナオン、ギターがターギ、さらにはお金の数え方、千円がツェーセン、三千円がイーセン、五千円がゲーセン、八千円がオクターブ、一万円がツェーマン、という具合、もう使われない言葉ですね。懐かしい時代です。
 モダンジャズファンなら誰でも知っている、ルディ・ヴァン・ゲルダー録音ブルーノート盤、ソニー・クラークのクールストラッティンを初めて聞いた時、しびれました。ファンキームードいっぱいのこの曲もすばらしいですが、2曲目のブルーマイナーがそれ以上で、ある時、隣の客の唸り声が聞こえ、それがジャッキー・マックリーンのアドリブを延々とうなっているので驚きました。全部諳んじていたんです。こういう徹底したマニアが当時はいました。
 Mさんは有楽町のママと八重洲のママの話をよくしていましたが、そこでジャズの知識を得たそうです。ウィントン・ケリーの脚立のレコード、ウィスパーノットとダークアイズが入っている有名なレコードですが、それがどこへ行ってもかかっていた時代だ、と話していました。銀座4丁目のジャンクでは若手ミュージシャンが出演していて、渋谷毅さんが出演する時は欠かさず行っていたようでした。渋谷さんとは仲が良かったようです。
 たっぷりジャズを聞いておけば、ディレクターやジャズミュージシャンと話すとき役立つよ、ただしクラシックミュージシャンには通用しないよ、と言っていました。
 私の20代の後半はジャズに明け暮れていたように思います。

フリー時代
 会社に撮影スタジオもあり、私は音楽スタジオ担当でしたが、ある時、撮影の同録で音楽を録音するという仕事がありました。これはコマーシャルで、ある程度だったらマイクを出してもよい、ということだったので12chの携帯用ミキサーと見場の良いスタンド、マイクを使い録音しました。打ち合わせの時、出来るだけノイズをカットしたいのでアリフレックスのBLを使っていただき、それでもノイズは出て、ディレクター、カメラマンと相談の結果、ズームレンズをやめて単焦点にしました。撮影の現場はそれまで何度かのぞいたことはあったのですが、また違う雰囲気でこれもなかなかいいな、と思いました。
 それからは時々同録を手伝うようになり、セリフ録りなどもするようになりましたが、いつもノイズのことで悩みました。しかし、同録撮影ということである程度歩み寄りが必要であると割り切るようになりました。
 32歳の時、ある音楽プロダクションから話があり、フリーになって仕事を手伝ってくれないかということでしたので、Mさんに相談しました。つまり、そのプロダクションの専属ではあるが、仕事のない時は自由に外部の仕事もやってかまわない、という条件でした。プロダクションからは一本いくらという契約、その他の仕事も出来る、というのは魅力でした。Mさんは、阿部ちゃんはまだ若いから、やってみて損はないと思うよ、と言ってくれました。Mさんのこの一言でフリーになる決心をしました。
 ダビングも出来、同録も出来、音楽録音も出来るということで、当初は結構重宝がられました。しかしだんだん仕事は限定されるようになりました。音楽録音中心ということでスタートしたフリー時代でしたが、ロック音楽の録音は欠かせません。
 ロックでもっとも好きな録音は、アル・シュミットの録音したTOTOWです。この録音は私の教科書と言えるものです。忘れてはならないレコードにアル・シュミットと対照的なミキサー、ロジャー・ニコルスの録音した、ドナルド・フェイゲンのナイト・フライがあります。素晴らしい音楽です。
 録音の仕事を始めて30数年ですが、私の初期のことなどを書いてみました。近年の録音機器類は6ミリ時代からみたら信じられないほどの変化を見せています。6ミリ同時録音からアナログマルチ、デジタルマルチ、そしてディスクの時代、いずれにしても音楽録音であることに変わりはありません。その時代の音楽をその時代にマッチしたツールで収録するということです。貸スタジオへ行っても私はあまり機器類にこだわりません。その場にある機器で仕事をします。マイクにしてもそうです。ノイマンのチューブマイクがなければ、ショップスのあれがなければ出来ない、などというのはきわめてわがままな言い草です。その前に音楽を理解しなさい、と言いたいですね。音楽をたっぷり聴きなさいということです。現在はデジタル録音が常識です。示唆に富んだ話を一つ。コンサイスの英和辞典を開いて見ますと、digitalの次にdigitalisとあります。ジギタリスは強心剤ですが、使い方を誤ると大変なことになります。デジタルもそうです。万能ではないということです。これはMさんにききました。Mさんはデジタル録音で有名な穴沢さんに教わったそうです。


阿部 次郎  経歴
  昭和21年 長野県小諸市生まれ
  昭和54年 フリー
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