平成25年 通常総会セミナー 《 初代 レ・ミゼラブル》のワイヤレスマイクの準備とその周辺
司会・進行 八幡 泰彦氏(特ラ連会長)
パネリスト 
 佐藤 満氏(ゼンハイザージャパン株式会社)、
 本間 俊哉氏(株式会社フリッププロ)、
 渡邉 邦男氏 (公財)新国立劇場運営財団 新国立劇場
 
八幡
レ・ミゼラブルの音響についてですが、まだ特ラ連ができる前でどうやったらワイヤレスが運用できるか、当時、郵政省の担当官さんから色々問い詰められていたところに、レ・ミゼラブルで東宝が30本以上のワイヤレスマイクが使えないと契約できない、というような話を聞きまして・・・。
渡邉
ちょっとその辺いいですか、みなさまにお配りしている資料で過激なところがあるもんですから・・・訂正していただけたら。(笑)
 資料9行目の1987年に帝国劇場から「レ・ミゼラブル」を上演するにあたってというところからですが、その時 東宝からは 日本人のキャストで上演するにあたって30波、32波とありますが、30波無いと作品が成り立たないということで、 契約ができないということではありません。
八幡
細かいね。(笑)
渡邉
大事なことですから・・。(笑)
八幡
さて、当時の技術レベルについてですが、50MHzまでのVHFの帯域で4波、微弱というカテゴリーでのみ使えたように記憶しているけど、佐藤さんどうだったかねー?
佐藤
当時は460MHzのワイヤレスで、ソニーさんとRAMSAさんが470MHz帯を作られていて、取引していた英国 Audio Engineering Ltd の MICRON でも470MHz帯を作ってもらいました。しかしながら460~470帯 合わせても同時運用は5〜6chがせいいっぱいで、またダイバーシティーではなくシングル受信だったのでデッドスポットなどもあり、不安定なシステムだったことを記憶しています。
渡邉
帝国劇場は昭和41年、1966年オープンしたのですが、当時、演出の菊田一夫さん、東宝の重役さんですが、帝国劇場に適した大きい作品をつくるということで、柿落しのあとすぐに「風と共に去りぬ」を上演し、リアスクリーンで動く映像を映し出したり、本物の馬を使ったりしました。また翌年には森繁さんで有名な「屋根の上のバイオリン弾き」、その翌年には「王様とわたし」、次ぎの年は「ラ・マンチャの男」、その次は「マイフェアレディー」など立て続けに大型作品を上演し、日本ではそれまで見ることができなかったミュージカル公演を行いました。
渡邉
その当時は 40MHz帯のワイヤレスで、わたしが帝劇に入ったのが昭和48年なのですが 8chのシステムで、予備が2波だったでしょうか?
その辺は八幡さんが詳しいと思いますが、当時はまだ水晶発振ではなかったし、管球式なので温度変化で周波数が変わってしまい、当時の受信機はひとりでは追っかけてくれません。それぞれ癖があり、送信機の方で電池を入れてから、温まってきたらどこら辺までいくぞと予測してチューニングを止め、実際役者さんが付けて温ったまってきたらちょうどよくなるところを探るなど、調整が大変でした。
八幡
当時、電池の種類も色々あったね。
渡邉
006Pとか、だんだん無くなってきた9Vの電池とか、今 みなさんがハンドマイクで使うようなタイプだと水銀電池のH7DとかHD2 とか 1本1千円以上するようなやつで、今だといったいいくらになりますか、それを8本位使う。制作はう〜ん、いくら掛かるだって〜?てなことになっちゃいましたね。
八幡
そうだった、あとその時はアンテナの問題があったね。
渡邉
当時は40MHz,50MHzの時代ですから、もちろんアンテナも長いわけで 約80cm位ありましたよね、ちょっと時代は ずれるかもしれませんが、ハンドと2ピースのタイプとあるわけですが、仕込み用の2ピースは本体とバッテリー部分が別で無理やり小さくしているようなやつで。ヘッドと送信機が分かれていたりして。
八幡
カイロみたいなやつだったね。
渡邉
アンテナもすごく長くて 足で踏んだり 引っかけてしまうとすぐに切れてしまって 背の低い方なんかは苦労しましたね、ちょっと時代はずれますが 帝劇では美空ひばりさんがダンスのシーンなどでワイヤレスを使いましたが、ひばりさんも小柄な方でほんとうはアンテナを巻いてはダメなんですが、養生して対応しました。
八幡
そのころの 他の問題はいかがですか?
渡邉
問題って、その頃は音は悪いし、すぐはずれるし、いつもドキドキしながら使ってました。
佐藤
今日はシングルの受信機のデータまで準備してないのですが・・。
渡邉
まあ〜 あまり古い話ばかりでもレ・ミゼラブルの本題まで行けないので・・。
40MHzの時代とかあって、その後 100MHz 、200MHz の池藤無線、タムラ、ソニー、なんかの時代があって、その頃でしたね、やっと水晶発振が出てきたんですよね! それまでゴムバンドかなんか挟んでなんとかずれない様に使ってたのが、池藤さんの社長さんなんか、「ナベさん 今度は水晶発振だからね ずれない!」
なんて、自慢されてたのを思い出します。
八幡
まあ〜よくずれましたね。
渡邉
はい、そうですね 受信機予備の9chと10chなんかは あれはラムサだったかな? ラジオのチューナーと同じように送信機の電波を手で追っかけて、受信機を卓のところに2台用意しておいていつも受信機がNGになると予備を手で追っかけてました。
八幡
昔、横浜のドリームランドで航空の電波を受信しちゃって、またそれをPAしちゃって、どじっちゃった。
渡邉
昔は、色々ありますよ 森繁さんの「屋根の上のバイオリン弾き」で、昭和51年頃、まだまだPAも大した機材も無いころ、スピーカーもA7とかゾイレで 生のオーケストラで全国を回ったんですが、当時ご出演の益田キートンさんの地元函館で、キートンさんがまた声が小さくて、けっこうフェーダーも上がってたんですが、タイミング悪くタクシー無線が「ガーガー」入ってしまって、大変なことになってしまいました。ハイ。(笑)
佐藤
いま、プロジェクター画面でご覧頂いているのが、MICRON のTX101で 電池は006Pを1本使うタイプで、TX102は006Pを2本使うものです。1980年にダイバーシティー受信のものが発売され、1984年にウエストエンドの「スターライトエクスプレス」で24ch採用され、翌1985年には「レ・ミゼラブル」に16ch採用されました。
MICRONにも、本題の「レ・ミゼラブル」で30波を使えないかとの要請はありましたが、当時モジュール式ではありましたが、不具合があった場合、メンテナンスに約1ヶ月近く掛かり、ウエストエンドでの実績はありましたが、日本でのサービス面を考えるとMICRONでは対応しきれないのではないかと考えました。
当時、その少し前ですが、ゼンハイザーから UHF帯での話があり、ドイツでは1980年より UHFが許可され、それ以前までのVHFから改善されました。ご覧の映像は受信機の1036 というものです、UHFバージョンはお尻にTVとか付いていて、VHFタイプでは帯域によってハイフン9とか90が付いていました。
1981年にはキャッツで21ch採用して頂きましたので、我々もゼンハイザーの方が対応できるのではないかと思い、お話を進めることとなりました。ただ当初、24chを使って、6chは予備とのことでしたので、これは余裕があるなと思っていたのですが、だんだん公演が近づくにつれ、実は予備がなくなり、ハラハラしたことを覚えています。
渡邉
本間俊哉さんのお父さん、本間 明さんですが、当時、ウエストエンドに「レ・ミゼラブル」を視察に行かれて、その頃、ウエストエンドでは受信機は16chで、もちろん送信機はその倍位あるのですが、スイッチ切り替えなどでやっていました。
 ただ、先ほども述べたように 日本人のキャストではコーラスとかアンサンブルとかしっかりバランスを取ってミックスしたい、と香盤表を追っていったらやはり30波必要とのことで、もちろんリトル・コゼットという子役以外には予備もやり繰りして臨んだしだいです。
佐藤
少し戻りますが、1957年ゼンハイザーが初めて発売した初期のものに比べると、大分小さくなっているのがお分かり頂けると思います。ただ当時一番不安がられたのがマイクロフォンとアンテナに使っているBKのコネクターで、差し込んでねじで回すタイプですが、折れはしないんですが心配でした。
渡邉
折れはしないけれど、よく緩んだ!(笑)
佐藤
今になってみると色々と出てきますね。(笑)
渡邉
佐藤さん受信機についてお話してくださいよ。
佐藤
送信機は大分小さくなったのですが、受信機の1026はVHF帯からの開発で、シングル受信でモジュール形式ではあるのですが、最大6モジュールで1セットのシステムで、ダイバーシティーだと2台使うことになりますから3Uで3chにしかなりません。「レ・ミゼラブル」では30波ですから合計30U になり それはそれは重くて大きなシステムになりました。当時6台と4台入りの2ラックにしたと記憶しています。
これが1036でアンテナ分配を内蔵していまして、ダウンコンバート方式なんですね。 
当時40から50MHzのVHFで各モジュールにダウンコンバートして、モジュール2台を使って本当のダイバーシティーを組んでいたものですから、チャンネルセパレーションも良いと言いますか、かなり大がかりになっていました。
八幡
で、送信機と受信機のセットでどの位したの?(笑)
佐藤
ロールスロイスが2台位買えたと思います。その当時のマルクのレートまでは覚えてないのですが、かなりのシステムだとさんざん言われました。(笑)
佐藤
受信機セットですが、3Uのモジュール2台で6chを構成するわけですが、これを5セット舞台袖に用意しまして、当然アンテナも各5本立つという、今では到底考えられないようなことですが、見た目はともかく、当時はどうしたら公演が無事に成功させられるかということで、この構成でご了解頂いた次第です。
 アンテナケーブルもRG213という硬くて太いタイプを使って頂き、送信機は軽く、小さくて良いんですが受信機は大きかったですね。
 この写真が当時、稽古が始まる前に帝国劇場さんの舞台に持ち込んで、現場でテストした時のものです。ふたつのラックで6chのシステム。アンテナも分配して上の受信機と下の受信機を分配してるところです。これが写真では4セットですが全部で5セットあります。
八幡
これは何年位ですか?
佐藤
1986年から、1987年春ですね。
渡邉
公演前ですから、4月位ですかね。
佐藤
これがマイクロフォンのMKE2で最初のころのタイプですね。キャッツの取り付けイメージ図です。額のあたりとか こめかみのあたりとか、揉み上げのところにつけるなんて今までなかったのでビックリしました。
当時、メーカーに行った時に水に強いとのことで、実際にコップの水に浸けてからドライヤーで乾かす、なんてことの説明を受けたんですが、いざ蓋を開けるとあまり強くなかったですね。
渡邉
これを稽古場で役者さんに初めて付けたんですが、アレアレという間に死んじゃってバチバチと壊れていきましたね。佐藤さん、水に強いっていうのは嘘だ!なんとかせ〜い、と。それとあとレベル設定なんですね。口に近いということで距離が違うんです、音圧が違うんです。その音圧で歪んでしまってこれではだめだということで、かなりメーカーさんとやり取りしてもらいました。
佐藤
我々もロールスロイスのワイヤレスですから、アフターケアーも万全にということで(笑)。これは日本だけでなくウエストエンドも同じ問題で、メーカーとも相談しまして送信機の方にパッドを入れたんです。トランスミッターの入力に対して過大入力が入らないように、と。しかしそれがあまり効果的でなかったので、MKE2でサイズは同じなんですが、約−6dB感度の低いレッドロッドというタイプのマイクロフォンを発売しました。しかしそれでも声を張る役者さんでは入力感度を下げて頂きました。
渡邉
最後は役者さんに声を張ってもらって 測定器で測ってこんなに出るんだぞ!て。データをお渡ししました。
佐藤
当時、送信や受信でのトラブルよりマイクロフォンのトラブルが多かったんです。マイクから、トランスミッター、レシーバーへと。システムとしてメーカーにも言ってきましたし、ゼンハイザーも24chのものはありましたが、30波ということで よく対応してくれたと思っています。
渡邉
あとヘッドの形状とかケーブルでも汗の伝わり方とか 硬さ、柔らかさなどかなり改良してもらいました。
佐藤
今の製品は当時の皆様のご意見など参考にさせて頂いております。
八幡
東宝さんはお金持ちだったね。
佐藤
そのあと劇団四季さんでもオペラ座の怪人で入れさせて頂きました。
渡邉
まあ〜、本間俊哉さんもいらっしゃるので「レ・ミゼラブル」の進化について伺いたいのですが、当時は卓もYAMAHAのPM3000を2台位使ってオーケストラとワイヤレスと効果音を出していたんですが、今また今年リニューアルされたシステムなどについて教えてください。
本間
平たく言うと、あまり変わっていないのですが(笑)
ワイヤレスが30波から36波になってまして 20年間で6波増えたところです。
八幡
3年で1波(笑)
本間
その当時から日本はあまり変わってないじゃないかというのが実感です。
じゃあ向こうはどうかというと、ロンドンのウエストエンドで40波。当初MICRON の16波から始まって、現在では40波。向こうのプランナーなんかと話しますと、イギリスでは、だいたいどんな公演でも40波頼んじゃう。
じゃあキャストが25人位だったらどうするの?て聞くと、ダブルで付けちゃうそうで、かなりアバウトです。今あちらでは国策か観光業がすごいじゃないですか、ミュージカルもそのひとつで、英語圏でないお客様向けなのか、昔よりもボーカルがでっかくなっている気がします(笑)。
ま、そんな感じですから、日本でも向こうからのものを受け入れるというところでは、40波はひとつの目標になると思います。
渡邉
最近は送信機もかなりコンパクトになってきたので、役者に付けるにしても以前よりダブルで付けることに違和感は無くなりましたね。 レ・ミゼラブルもウエストエンドで16波からスタートして、日本では30波になり、コーラスなんかは生声からどんどん足していって力強くなっていくのがオリジナルなんですが、日本では逆にたくさんのワイヤレスが最初から使えたものですから、エフェクトを使ってリバーブ感を作って、そこにシーンを足していくことで表現力が豊かになり、ナチュラルで広がり感があり、そういうことを日本でやって、また向こうに持ち帰って、向こうでも作品にプラスになったように聞いています。
八幡
今後のところはいかがですか?
渡邉
ワイヤレスもまだまだだと思いますし、有線に比較しても 音色を良くしてセッティングしやすいものにしていけたらと思います。
八幡
佐藤さんは?
佐藤
20数年前日本初の大型プロジェクトに参加することができて光栄に思っています。
また、当時、結構 写真も撮ったのですが、残念ながら今では2枚ぐらいしか残ってなくて 簡単になんでも捨てちゃダメですね。
八幡
今回のセミナーもそろそろお時間のようですが、3人の方々に盛大なる拍手をお願いしてお開きとさせて頂きたいと思います。どうもありがとうございました。