ちょうど私がこの前、連載していた「私の来た路」では、いい反省の機会をいただきました。それをこの前読み直しをしていろいろ、はっと思ったことがあったのですが、このテープレコーダーの出現ということから、効果の技術からみた環境の移り変わりという話しをしていこうかと思います。
当連盟監事をお願いしております金子さんはわたしの、一生の先輩でありまして、一回先輩になった者は二度と後輩になれない、ということがありますけれど。
なにしろテープレコーダーが出来たのは私の高校の一年あたりだったように覚えています。昭和27年くらいだったと思います。
まさかそのテープレコーダーが効果音のありかたを変えることになっているとは知りませんでした。結局私としてはテープレコーダーが普及してから3年ぐらい経った頃、テープレコーダーを扱いながら効果の仕事というものを始めたわけです。その時はもうミキサーの前に一人で座って舞台を見ながら、あるいは舞台の陰に長机をおいて、邪魔にならないようにしてくれ、と言われながらそういう形で仕事をしていた、という覚えがあります。そのテープレコーダーが存在する前は、効果というのは人海戦術でした。ですから効果のプランをやる人は大変な思いをしていたんですね。
実際に効果音を出す、例えば馬の蹄であるとか、波の音、とかあるいは雨の音であるとか、そういったものを操作するのは舞台の中にいなければならない、しかも観客から見えてはいけない、ということで、操作する人は舞台の中をみることはできないし、鉄砲の音などはともかく、きっかけというものはあいまいなものであった、ということが言えると思います。
ただ映画のほうは、昭和3年あたりから、すでに実用化されておりまして、ダバーを使っていました(デジタル時代のダバーと違います)。大体トーキーの基本はシンクロナイズにあったわけですから、リップを、唇に合せる、セリフを合せるとか、そういうことできっかけを合せるということで言えば、映画の世界の人はほとんど楽にこなしていた、と言えるわけです。
舞台にいる人はその点、非常にシビアだったわけです。
これで映画の方できっかけをとる、ということを覚えたものですから、勿論テープレコーダーを使ってですが、音が舞台の上できちんと合うということは、アレッと思うように音がきっかけによって生きてくる場合がある、ということを発見した覚えがあります。
それが、きっかけにあわせることによって、音の表情が変わるということが、私の興味を覚えたことの一つになるのではないか、と思います。
それとテープレコーダーというものは非常に高いものでしたから、まあプランナーによっては1台、円盤式のレコーダーだとか、生音だとかを組み合わせてやったように覚えております。
私が舞台の仕事をやるようになったのは、1957年ころからでした。テープレコーダーが現われたのが1952年ですからそれからもう5年くらい経っているわけです。でもその間に舞台の効果というものは合理的になり、大勢いたのが舞台を見ながら操作が出来るということになりました。これは画期的なことだったように聞いております。
私としてはなんだかよくわからなかったのですが、要するにそのきっかけに音を合せる、ということで非常に音が活きていた、という経験がありました。
舞台の上でミキシングをやったり、あるいは....これは放送などにはないことなんですけど、スピーカを多用するというような、つまり音源に一つずつの音を当てるということが、まあ自然音というのは大体そうなんですが、音源というのは二つ以上の音が一つの音源から出ると言うことはほとんど無い、つまり虫が何匹か鳴いていればその音源の位置というのはみんな違うわけですから、まあそういったことが音のリアリティと関係があるんだな、ということを後でなんとなく感ずることが出来るようになったわけです。
そういうところで、テープレコーダーを使ったり、市販のスピーカを使ったりすることが、音響の仕事というものがプロくさくならなかった原因の一つと考えています。
ひとつには、我々どちらかといえば放送関係だとか映画関係だとかの手伝いをさせられていたので、その結果、プロ用の機械を使うことには慣れていたんですが、しかし舞台にきたらプロ用の機械なんてのは大きさの関係で使えない、というのもありまして、だんだん家電製品のものに頼っていった、ということが言えます。
これが大体効果自身がつまらなかった、というか非常に稼ぎが悪かった、つまり家電製品を使っているので尊敬されなかった、ということがあります。しかも家電製品というのは大量生産というのがバックにありますから、大量生産できるもの、というようなこともあって、いろんな意味でギャラが上がらないで苦労した、という思いがあります。
1969年あたりからロックコンサートというのが非常に盛んになって、それ用の外国製のスピーカであるとか、ミキサーであるとか、あるいはマイクロフォン、マイクロフォンはシュアーのハンドタイプは積極的に使いましたが、要するにPA関係のものは殆ど外国製のものだったということがあります。
僕も、あるメーカーへ行ってスピーカ、劇場用、もしくはコンサート用のスピーカをなんとか、と聞いたら台数は何台くらい出るの、というから5百台くらいは保証出来るといったら、鼻で笑われて、うちはねえ、大体10万個くらいが一つの単位になっているんだから、と言われまして、聞きに行ったところが悪かったのか、こちらがみすぼらしかったのか、よくわからないんですけど、いずれにしろ数というものがすごく関係しているんだな、というようなことがどうやら分かったような感じがしました。
それからあとと言うものは、自分なりに忙しかったものですから、ただそのテープレコーダー以後、例えばデジタル技術を使用したPCM録音だとか、PCM録音というのは、当初はVTRのデッキを使ったようなものもありますが、ラムサ、当時はテクニクスブランドで、パッケージが3/4のものを使ってPCMレコーダが出来た、というようなものもありますが、これはあまり伸びなかったみたいです。というのはPCMレコーダーの開発、つまりデジタル技術というものが、迷走していたのではないかと思いますが。なにしろこれ、というものが出来なかった。
一方でカセット式のテープレコーダーも出てくる。カセットというものは非常に小さいもので、しかも遅く回る。つまり同じ容積のものでも、オープンリールに比べて1/10くらいの大きさでしかも往復でステレオも出来る、というので非常一般に売れたわけでるよね。ところがそういうものについて言えば、我々としては音をいじりたいのにいじれない、ということが非常にネックでありまして、よわったな、これは、ということがありました。そうしたら10分とか15分もののカセットを使って、下北沢あたりのアングラの芝居の音出しに、カセットテープの穴に鉛筆を突っ込んでまわしてそれで録音すると、ピタッと音が出る位置に録音できる、という、そんなバカなことが出来るはずはないと。それは尊敬しながら敬遠したんですけど。
ところがテープレコーダーそのものについて言えば、50サイクル、60サイクルの変化というものが、サーボモーターが出来たおかげで、全く無関係になったんですね。
富士川のところで周波数が変わるというのが、ネックになっている、というんですが、テープレコーダーではだいぶ早めに解決している、と感じたことがあります。
なにしろ、そういうことがあって、テープレコーダーについていえば、サーボモーターというものが出来たおかげで、回転のムラを含めて大分楽になった、というのがあります。
私も、テープレコーダーはワウフラッターが非常に大きいので、例えばフライホイールだとか、アイドラーだとかそういったものについて、また、イナーシャ、慣性ですね、そういったものでなんとかしなければならない、ということで苦労したことがあるんですが。
ある日、サンキョウのモーターだったんですけども、なにしろ軸を研磨して直接ドライブするだけでワウフラッターはプロ並に0.07%くらいまでいっちゃうというようなものに出会って、これは大変だな、というようなこともありました。
要するに僕等が開発の荒波のなかをどのようににくぐってきたか、その間ずっとギャラが上がらなかったということも反省しながら話しているわけですが.......
なにしろサーボモーターが出来たのでタイムコードというものが大事だと、で、アメリカのSMPTEの規格を使ってそれでタイムコードをきちんとやろうじゃないかと、それがいわゆるPLLの発信方式になって、それがワイヤレスマイクに使われて、実はその新規格のワイヤレスマイクというのはここらへんに端を発しているじゃないか、と言う風に考えますけども、どうでしょうかね、今の話は無理がありますかね。
まあ、効果をやる、と言うことを中心にして、世の中の動きが非常に大きく動いているのに僕等は関係なく仕事をしていた、ということですね。
今から30年くらい前ですが、デジタルのおかげでCDが出来、まあデジタル技術でテープを回そうということでDATが出来ました。またフィリップスのDCCが出ました。
ただこのへんのものは我々にしてみると録った音を直接使えるわけではないので、リレコしなければいけないというようなことで、非常に、隔靴掻痒というか、靴を隔てて痒いところに手が届かないというようなことで苦労したことがあります。
それでワイヤレスマイクも新規格のものが出来て、現用のものの前のものですけども、これは現場では大変な騒ぎでした。電波がしょっちゅう逃げるは、安定しないは、逃げるにしても自動で追いかけるから大丈夫だ、と。自動で追いかけているときは掴まらないんですよね。セリフなんかで逃げちゃうとどうしようもない、ということでワイヤレスマイクのメーカーのかわりに私どもは大変怒られまして、打たれ強くなった、という感じはあります。ただワイヤレスマイクがきちっと受かっているときは非常に具合が良い。
実際、当時、ミュージカルなどというものが日本に上陸しまして、なにしろテープレコーダーで音楽を録音したものはオーケストラも絶対に変わらないわけだから、歌の方で合せるということで、いわゆる芝居として成り立ちやすくなる、というようなこともありまして、流行時代になってきたわけです。
一方、ロックなんかのお陰で大規模な会場で、ウッドストックあたりでは6万人、延べで50万人くらい動員したという話があるんですけど、なにしろ大勢の人間を集めることが出来たというのがありました。
日本でいいますと武道館あたりで、ビートルズが来たとき、大変集客効果が上がったわけですね。音のほうはよく分からないけど最初に来たとき、ビートルズはアコースティックな楽器ばかりだったんで、非常にまとまりが良かった。ですが、その後、ヘビーメタルだとかいろんなものが流行ったお陰で壁のようにスピーカを立てる、舞台一面スピーカだらけ、というような、音圧でなぎ倒すというようなことが音楽の主流、主流というか亜流だと思いますが、というようなことがありました。
こういう中で、その舞台音響というものに、PAというものも含まれてきたんですね。舞台音響の中にPAが発生したということは、逆にいえば音楽産業の中の一部をお手伝いできることになった、と考えています。
音楽産業、産業とつくわけですから大きい売上というものが望まれるわけですね。望まれるし計画できるわけです。武道館でいいますと、8千から1万くらいの人が入るようになった。そうすると武道館というものが一つの単語になって外国にまで伝わる現象が起こり、そういう中で今度は大きい音量というものと、明瞭度が高いというものが入り混じって問題が起きてきたんです。
そのような中で、例えば残響時間が長いというのが非常に明瞭度を下げることになる。残響時間が長くないとアコースティックの音は混ざらないわけですね。混ざらないけども残響時間が長いおかげである程度の音量も確保出来るし、音楽自身もその響きによって効果も上がる。まあ、コンサートホールの場合はホールそのものが楽器に一部と言われ、そのような中で我々の仕事というものも出来上がってきたわけです。
そういう中でワイヤレスマイクが非常に役に立ってきて、ワイヤレスマイクを当てになる装置として劇場で採用したい。そういうような動きというものと、当時の郵政省で考えていた割り当てがきちんと出来るのであれば、高いほうの周波数であるけれど考えられるということになってきた。結果、ホールの残響時間は短くなる、スピーカからの出力は大きくなる、ということで、今度は音の明瞭度というか、音の到達、セリフの到達が非常に良くなってきた、ということもあります。
さて、効果の仕事とPAの仕事でどちらが売上が上がるか、というと、実は効果というものは、さしさわりがあることなんですが、まあ左翼系の仕事が多かったんですね。左翼系の仕事が多かった、つまり演劇の効果の仕事というのは、まあ、なんとか飯食わすからとか、やりがいというものは芝居のテーマを考えれば明らかである、とか、なんだかうまく言いくるめられて、適当に言われてやってきた。挙句の果て、芝居というものは儲からないもんだ、ということが分かってきた。だがPAというもので非常に儲かるもので、僕等の30年くらい前は両極端に別れて、両方ともやれる、しかしギャラが違いすぎるというのが問題だったという時代があります。
それが、丁度20世紀の終わりくらいには、効果でやっている人たちも、PAでやっている人たちも人間的交流が非常にうまくいきまして、どっちのギャラも大体同じくらいにバランスがとれて、まあ、一緒になってもいいじゃないか、という雰囲気になって一緒になった、というようなことがあります。
テープがなくなる、というような噂が流れ、テープがなくなるとマーキングができなくなる、それからテープの回りがある程度早くないと音のマーキングも大変だというようなこともあって、テープがなくなる、という話しを聞いたときは、私などのところにも新聞社の人たちが来て、それでどう思いますか、と言われて、どう思うか、こう思うかもない、非常に怪しからんと言った。どうも東京では記事にできないというようなことも言われた。
要するに、家電の業界としてはテープレコーダーというものは資源の問題もあるからこれからは無しにしていく、というようなことに出あったわけですね。こっちは全然知らないものですから、極めて素直に、まあ60年安保がうまくいかなかったことを考えれば、何てこと無かったんでしょうけど。なんか役にたつんじゃないかと思って一生懸命にいろんなことを運動したんですが、抗しがたくテープはやがてなくなるようになってきました。それがさっき言ったDATからMDになりカードになり、こっちがいくらマーキングできないから、と言っても、あるいはテープが回っている状態が分からないと、その機械から音が出ているのか分からない、5台6台パラで回すような仕事が増えてきたものですから、非常に困るなあ、というようなことを言ったんです。しかし力なくて無視されてそれで、DAWが出来て、これが非常にいいよ、と言われて、1セット4千万だという話が、いつの間にか7百万くらいになり、その延長でプロツールスが出来たわけですけど、プロツールスになったら、PCを除いて大体10万以下ということになった。
なんだかマーキングしよう、マーキング出来ない、というのが非常に問題だったのが、いつの間にかどっかへいっちゃって、それで僕等としては大勢に従うしかないのではないか、というような形になってきたわけです。
6月7日、総会のおりのセミナーの概略です。