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八幡 泰彦


 1960年代の話 もう一寸
 1961年2月頃の話から始めます。
 この年私は25歳になりました。正確にはこの年の10月に25歳になるわけですが、高校同期の人たちは既に社会に出て活躍し始めてい、大学同期の人たちも広告代理店や放送局などに入って処を得ていました。
 足掛け3年ほど前にこの世界に入ったときは一日の長があったと、いささか得意だったのに、なんとなく置いてけ掘を食わされたような妙な気分でした。
 穏やかな季節を満喫できるかと思いきや学生生活にけじめを付けなければならないときが目前に来ていることに気がつきました。もっとも、多少気がついていたのは昨年からで、障害物競走さながら、スタジオや現場と教室を行ったり来たりで最後の1年の外国語の試験もどうやら切り抜けられたとホットした所で、「フランソア」で昼飯にビールと決めました。頼んだりしているところに後輩が来て「民法の試験が残っていますよ」。一瞬慌てましたが、これも見せてもらったりして土壇場を切り抜けることができました。危うく卒業し損なうところでしたが、それにつけても「フランソアでのランチ」なかりせばと考えると、運がよかったと思わざるを得ません。

眼が回るほどの試験も一段落して、それからは劇研にも顔を出し、効果の相談にも乗ってやったり、結構それなりに忙しかった。
 学部の後輩たちが劇団を立ち上げることになったので、是非力を貸して欲しいという相談がありました。「杵屋花叟さんが作曲してくださることになりました、ついては先輩にぜひともと云われまして、、、」
 プロの世界に入ってから叱られるばかりで、おだてられることにはすっかり弱くなっていた私は渋々二つ返事で受けてしまいました。(後になってそうは見えなかったといわれました。)
 が結果は思ったとおり散々な赤字で終わりました。この穴埋めはきっとしますからと云うM君の話を聞きながら、曖昧に許してしまいました。
 今にして思えば、どうしてこうなるんだろうと暗澹とした気分になれなかったその時の自分がくやしい。

そんな毎日を送っていたときですが、先生から相談があるんだけど、と言われ、テレビ局に出向きました。「ここのオンコーの課長さんから頼まれて、5人ぐらい至急に集めてほしい」ということでした。初めてでもいい。初めてのほうがいい。こんな良い条件は滅多に無いことだということで、T君と舞芸を今年卒業するN君とM君、上智を卒業するI君の4名をオンコーに決めました。(オンコーは音響効果、音楽効果のことだとすぐに分かりました。)課長のFさんはとても器用な人でした。当時の音効の音源はSPにカッティングしたものを臨機応変に使い分けるもので、Fさんはその達人の誉れ高い方でした。この時の3人はずっと定年までこの仕事を勤め上げました。
 ふと気がつくとこの何ヶ月か、仕事がまばらなことに気がついた。先生自身は結構忙しいらしいのにお呼びがかからない。
 先生に仲人をお願いして結婚の準備に入っているのに段々不安になってきたのに、先生は相変わらず明るい。はっきりさせようと思って「研究所を辞めたいのですが」といいましたら、明るい調子で「それはいいことだ。いつかはそういう日が来るだろうと思っていた」といわれました。
 「何時までも私のところに置いておくわけには行かない」「でも仲人はお願いします」「当たり前でしょ、巣立ちのときなんだから。ま、しっかりおやりなさい」 結局明るくやることになってしまいました。
 物珍しさやお祭り好きが友人の殆どでしたので仕事の関係は誰もいない、なんの下心も無く、政略の匂いもかけらも無い集まりでした。高校と大学と劇研の仲間だけの、屈託の無い150人ほどの集まりで、今思い出しても自分たち二人にとってこんなに暖かな集まりは無かったと思っています。二人の両親も兄弟姉妹も親戚もみな健在で喜んでくれたことを考えると最善のときでした。
 両親も友達も、幹事役を引き受けてくれたO君もK君も鬼籍に入ってしまいました。
 結婚とそれに纏わる話は一先ず措いてその後の話にしましょう。

さて結婚して家庭を造ったものの、ほんとに仕事が無い。修行時代に出会った人のところに頼みに行くのは簡単だけれど、全然違うところで探さなければと思っていました。仕事は今までとはまったく違う方面でと心がけないと、先生に申し訳ないことになるし、今後の人生に禍根を残すことになる。これだけは絶対に避けるべきだと考えていました。

6年ほど前にアルバイトで働いたことがある会社、「東京電子」をふと思い出しました。電話帳で調べると今は東上線の東武練馬のそばにあることが分かり、出掛けて行きました。
 前にお世話になり、「仕事はただ単にすれば良いって物じゃない、情熱の実感が大事だ」と言外に教えてくれたWさんが電話に出て、聴き憶えのあるあの調子で「一回遊びにいらっしゃい」。
 以前Hi−Fiや劇場用のミキサーなどを作ったことがあり、キャバレーの音響設備の設営に出掛けたりしたことを思い出しながら云われた所に行きました。世田谷の弦巻時代を考えたりしながら着いたら驚きました。人が一杯いて、デカクなって、活気に溢れていること、考えていたこととまったく違った様子でした。
 「色々あってこんなことになっちゃって」Wさんは6年前とまったく変わらない調子で話してくれました。
 私が大学を受けるべく辞した翌年、試作した電池式のテープレコーダーがアメリカの JCペニーという販売会社大手の目に留まりオーダーが来たのが始まりで、松下電器(現パナソニック)に協力することになったこと、今は700人ほどの従業人がいることなどの話の後、会社の見学ということになりました。
 社長さんも専務さんも以前のままでにこにことお会いしましたが、気のせいかどっしりと貫禄が備わったように見受けられました。社長さんに「お父さん元気?」と聞かれた時、8年前の藤田西湖さんの家でお二人に出会ったことを思い出しました。
 Wさんの本陣である技術部や試作を兼ねた工作部を見学しました。「ここでは心臓になる部品を造っている」「下請けには出さないことにしている」と技術部としてのディグニティを教わりました。
 そのあと、どの場所に行っても知った顔があり、それなりに重要な役割を担っていると聞き、懐かしさで一杯になりました。
 この日は、就職をお願いに行ったはずが、感心しっぱなしで帰ってきてしまいました。帰ってからもしばらく興奮していたことを憶えています。
「遊んでいるんだったら来ないか」今考えるとそう云われたような、云われなかったようなはっきり思い出すことは出来ませんが、この会社で働くことになりました。
 しかし云える事はここでの仕事に喜びがあるに違いないと感じたことです。8年ほど前にこの会社で教わった“生きがい”がここにはあると信じたことです。数日を経ずに社員にして貰いました。

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