12、1960年 本編の初体験の話、まだ続きます。
考えてみるまでもなく、これまでのフィルム体験は16mmが殆どでしたので王道ともいえる35mmの世界を考えると秘かに身震いしたものでした。本編の仕事で、しかも日本のトーキーの草分けとも言える五所平之助監督であることは緊張しなければいけない。
松竹のスタジオは床が地面でした。今まで経験したスタジオは床が浮いていて足音などには苦労したものでした。さすがに本編のスタジオは違うと感心しましたが、次の日に効果さん出番やと言われて出かけたところ、「あかんねん、昼まで待ちや」「工事で車がどもならん」土木工事のダンプカーの出入りが午前中は続くと言うのです。裏の道が拡がって以来、車の行き交いが激しくなったらしい。午前中は稽古させてくださいとお願いをしたらほな、稽古するかと言うことになりました。山の水で食器を洗うカットがあり、それに音をつける稽古です。これは録音部の仕事とちゃうかといわれたのですが、効果のしごとでしょうといってスタジオに入ったら既に洗い場はセットされて食器も用意されていたのにはびっくりしましたが、なんと親切な人たちだろうと思いました。有馬稲子さんが慣れぬ手で食器を洗うロールを掛けてもらい、段取りを考えることにしました。5分足らずのラッシュでしたが先ずスクリーンの大きさに驚かされました。それに色鮮やかで有馬さんも綺麗、見とれている間に終わっちゃった。すいませんもう一回おねがいします。で、いつの間にか相当の回数になっていました。突然トークバックで「まだ段取りつきまへんか」と言われて我にかえって慌てました。「一回、廻しまひょか」と言われたのに鸚鵡返しで「どうぞ」と言っちゃった。「ほな、まわします」リーダーが終わってロールのあたまで有馬さんの手がインサートすると茶碗が水に浸けられ、次いでお皿が,と言う具合の矢継ぎ早のアクションの連続にアレッと思ったら段取りがわからなくなった、と思ったら次は頭ん中が真っ白になって、やがて滅茶苦茶になってしまった。
そのうちに調整室のなかは大勢の人でいっぱいになっていました。始まったときは録音部さんが一人だったのが録音部全員でコンソールにはチーフが座っているし、チーフ助監督も先生までこっちを見て苦い顔をしている。
結局この場は先生が謝って取り繕って下さったようでした。私は控え室だったか別室に行っているように云われたのか今となっては定かではありませんが、ともかく一人になってぼんやりしていたことしか思い出せません。反省するにもなんにも、この現場では非難の対象であったのは間違いもない事実であるし、こんな立場に立ったのも初めてのことだし、東京まで歩いて帰れと言われても仕方がない、うっすら、『恥』と云う感覚も浮かびましたが誰かが声を掛けて来るまで我を失っていたのかも分かりません。しかし「恥をかく」と言う痛みはこのことかと烈しく感じました。少し大人になった一ページとして心に刻みつける事になることでしょう。
この出来事のはじめから付き合ってくれた録音部さんが穏やかな表情で迎えに来てくれたのはどのくらい経った後なのかは記憶にありませんが、調整室に帰ったときは録音のチーフと先生の二人きりでした。二人とも機嫌良かったのには思わず泪が出そうになりました。「さ、仕事に掛かろうか。」と言うのが二人の言葉でした。気を取り直してレコーダーの前に座ったら、「画を見て音の準備をしよう。」これが、先生の私の仕事に対する指図でした。
今日の最初のダビングロールは先程私が悪戦苦闘したものでしたが、懐かしくさえ思えました。「見慣れたフィルムだろ」これはチーフ。「山の中、流れの具合、季節や時間、場所にも気を配って」これは先生。結局「生」は録音部の担当と云う事になりました。
壁にはロール表が張ってありました。48ロール以上に分けられ、シーン毎に切られているのが、助監督さんに教えられて分かったような気がしました。テレビのドラマが多くて12ロール位だったかと思うと何時になったら家に帰ることが出来るやら、今朝の事件を思い出すとユーウツになりました。ダビング(意味について先生に聞かれましたが、即答は出来なかった)は快調に進みました。「それにしても皆さん上手いものですね」とお世辞ではなくチーフさんに云ったら、「当たり前や、撮影のとき付き合っとるし。」「手順も用意せないかんものも頭にはいっとる。」傍で先生は聞いていないようでした。
その日は切りの良いところで早よ帰りまひょ、ということで宿に帰りました。宿は木屋町といって、昼間はまあ閑静とまではいえないが、夜は夜中まで賑やかなところでした。夜通しチャッカチャッカうるさくて仕様がない。窓を開けてみるとプラカードを持ったおっさんが取っ手の付いたカスタネットを鳴らしていた。それを振ることで注意を引き付けようとの魂胆に違いない。関西は大胆に事を運ぶところだと思いました。
録音機は東通工製のKPでした。それ以外は光学録音機でウェストレックス製のものが何台か、ダビングマシーンといわれるものがあったようですが、これが再生専用機だったのか憶えていません。チーフがこの音はエーオンやとか、あの音はビーオンに釣っとけとか、訳の解からんことを言っているのを聞いて、忙しかったのを理由に聞き流していたのでしたが、後になってアオイスタジオで本編の仕事に就いたときに解かりました。それまでの5,6年の間深くはないのに思い続けていたこと、それがバイアスになって突然のように思い至ったこと、納得がいったこと、結構それから体験しました。しつこい性格なのかな、俺って。
兎も角、佐分利信さんも有馬稲子さんも印象に残る人になったのは間違いありません。
このダビングが終わってしばらくしたある日、先生が私に、京都の録音部には、「生音はよろしく、環境や自然音、花火や空襲のサイレンなどテープでなければ用意できない音はこっちでやりますから」と言う打合せだった、といわれたので胸のツカエが下りました。尤もそれに続けて「君の生音はまだまだだから、それでうまく行くと思ったのだがね。」と言われたのには、ガツンときたけれど、すぐに素直にありがたいと思いなおしました。
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