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出席者: 野田幸一(ノダアート企画 代表)
青山明夫(株式会社ショウビズスタジオ)
八幡理事長     (敬称略)
司会進行まとめ 大野正夫

会館当時の「新宿コマ劇場」
       「50年史」より
場 所: SCアライアンス 会議室
日 時: 平成21年1月23日、2月6日
 株式会社コマ・スタジアム経営の、「新宿コマ劇場」が昨年(平成20年)いっぱいで閉館となりました。演歌の殿堂にふさわしく数多くの歌手たちが舞台に立ち、ここでの成功がひとつの鍵となりました。この殿堂において公演のキーポイントともなる音響を担当されてきたお二人と、八幡理事長を交えての座談会を企画しました。当初はもうお一人の浦さんに加わっていただく予定でしたが、どうしてもやりくりがつかず欠席されました。50年余の新宿コマ劇場はほとんどこの方々によって支えられてきたわけです。ご存知のように、新宿コマ劇場は長年の特ラ連の会員でした。
       
司会:
コマ劇場のネーミングの由来はコマ(独楽)のように回る、回り舞台からきていると聞きましたが。
八幡:
三重の回り舞台で真ん中も上がり、四間くらい上がるんで、レビューの考えかただね。小林さん(一三)の考え方だね。野田さんはその頃からやっておられ、当時は音声とは言ってなかったですよね。
野田:
調音部ですね。
司会:
それでオープンは1956年、ですね。
野田:
そうです、昭和31年12月28日です。最初は映画からで、トッドAOの70mm「オクラホマ」からはじまったんです。(注@)32年の3月までそれをやり、4月からの演劇公演の最初の舞台が、当時の東宝の大御所、演出家菊田一夫によって「レビュー廻れ!!コマ」と、新宿コマミュージカル「葉室烈人の恋」(ハムレットの恋)になります。 (注A)

◇まず40MHz時代から
青山:
その時、ワイヤレスは何波あったんですか。
野田:
確か4波だったと思います。円形舞台の機構を持って、自由自在に3パートが上下し、なお回転する舞台の前面にはオーケストラピットを持たず、音楽はすべて録音で。当時録音再生機は東通工(ソニーの前身)の、3chのCP13、ES13にG型モノラルの3台で公演を行っていましたね。
司会:
3chというのは面白いですね。外国にはありますけどね。
野田:
L,C,Rとなっていてね。L,Rにバックの音楽、センターに唄というあんばいで、コーラス等はダビングで生唄があれば有線マイクで、ワイヤレスは当時の公演では使われませんでしたね。
司会:
当初はワイヤレスマイクを使うチャンスはそうなかったんですか。
野田:
いや、そうでもないんですよ。レビューや踊りなどの催し物はテープで出来たんですが、ジャズやハワイアンの生バンドの時には有線マイクですべて処理したんですよ。淡路恵子さんの旦那さんでビンボー・ダナオというジャズシンガーがいましてね、演出上廻り舞台の芯盆に乗ってワイヤレスマイクで唄ったんですが、電波が逃げちゃいましてね同調しない。10メートルくらいの高いところで唄うんだけどスペアを持って、というわけにもいかず、結局、全部生で唄いましたよ。それからワイヤレスは怖いものだという恐怖感に陥りましたね。 池藤(いけふじ)のワイヤレス時代が終わりナショナルの40メガ6波となり、長い間、いくつもの難関があり、タムラのワイヤレスに変更して研究を重ねてみましたが、ミキサーが泣かされるのは決まってワイヤレスのトラブルが一番多かったですね。 舞台の役者は自分の芸を売るために、ワイヤレスをくださいと必ず主張してきましたね。ワイヤレスを持つことで、自分の役者としてのランク付けにプライドを持っていましたね。
青山:
ショーものは決まっているからいいけど、お芝居ですよ、何十人もいるのに、われもわれもではね。マイクなくてもあなたはセリフを言わなければならないうんですよ、といんですけどね。
八幡:
ぼくの経験では,TVの役者が出てくると声が小さいものだから、ワイヤレスをつけさせるのは差別だとね。これは名のある役者だけれど、ワイヤレス出したら、バカにするな!と怒ってね。それから10年ほど経ってまたワイヤレスを出そうと思ったら、最初によこせ、と言うんだ(笑)。
青山:
マイクなんかいらないんだ、という人もいましたね。コマのようなキャパだと、舞台に立つと声を張り上げてしまうんですね。
野田:
3日たったら声がつぶれていましたよ、下手な役者さんはね。
司会:
40メガ時代は送信機も大きく大変だったんでしょうね。
野田:
最初の池藤では2電源もっておりましたからね、積層のヒーター用とプレート用の。大きいし、重いし。最近は単三一本ですみますからね。開発のおかげですね。歌手と付き合うようになってワイヤレスは必要になりましたね。最初のころのハンドマイクはごついやつでね、送信機部分に直接SM58を付けて音質を大事にしてね。こういうのをコマで開発しましてね。キャノンで繋ぎましたね。
司会:
トータルの大きさはどれくらいに。
野田:
3〜40センチくらいでしたね。
司会:
ホォー、巨大ですね。
野田:
40メガなものだから、またアンテナも長いんですよ。背中から後ろへたらしましててね。司会者はそれが一番安全なんですよ。
八幡:
ワイヤレスのアンテナを唄いながら巻くひとがいてね(笑)。
青山:
手持ち無沙汰なものだから(爆笑)。
司会:
それもわからないではない。だけど止めてよ(笑)。
野田:
だけどそのうちにバチバチなんていうと、さっと止めて手放すし、ハハハハ(笑)。
司会:
かなり楽しいね。楽しんじゃいけないけど、おかしいね。
八幡:
話しながら線の端をむくヤツがいるんだよ。どんどんやるとアンテナが出てきちゃう。これに触ったりするもんだからズボッ!ズボッ!と逃げちゃうんだ(爆笑)。
野田:
人間アースになっちゃう(笑)。
八幡:
大体主役級は忙しいからやらないけど、脇へまわっているヤツがよくやるんだ。これが誰がやっているか分からなくてね。
司会:
ビリ!ビリ!とくればいいけどね(笑)。

◇外来(妨害?)電波など
司会:
外来電波はありませんでしたか。
野田:
ええ、ありましたよ。消防署の電波が入ってきましたよ。歌舞伎町を走って行くともろに入ってきます。淀橋消防署です!なんてね。ワイヤレスをすぐ絞っちゃいますよ、すぐ生です。警察無線はなかったけどなぜか消防無線が多かった。同じ周波数のわけはないから、第3高調波でひっかかったんでしょうかね。ぼくらで計算して原因を突き止めたこともありましたけどね。客席に「火事だ!」と出たら大変ですからね、もう役者のほうもなんにも文句を言いませんよ。そういうことが一回ありました。40メガではノイズは多かったですね。 あと人為的なことはいっぱいありますよ。ミキサーのフェーダーの下げ忘れが。誰それがワイヤレスマイクの電源を切り忘れてトイレに入ったとか、役者の内緒話が入ったとか、ミキサーは始末書ものですよ。
青山:
和ものの芝居の時、ミキサーが、ワイヤレスの調子が悪いから取り換えてくれ、というんでね。舞台ではヤクザの芝居が進行中で、ソデでテストしてくれというんでワンツーワンツーってやったんですが、フェーダーが上がっていたんですよ。ヤクザ芝居の座敷へワンツーワンツーと入ったものだから、いや〜怒られた怒られた。ぼくが入って2年目くらいでした。それからマイクテストはどうしょうか、もし漏れてもいいチェックの仕方はないか、イチニ、なのか、ヒトツフタツ、なのかいろいろ考えたんだけどね。
司会:
これは可笑しい。しかし漏れないのが一番ですね(笑)。
青山:
これがもとで、ワイヤレスを新しくするきっかけになったようですね。
八幡:
あの頃、SM58がヘッドとして付く前はゼンハイザーの211が付いていたことがありましたね。無指向のね、なぜか無指向でね。ヘッドが無指向から単一指向になったのはだいぶ後でしょう?
野田:
あとですね。
司会:
無指向にしておけば間違いはないね。
青山:
ですけどハウリングには参りましたね。
八幡:
ハウって困るんだ、と言うとねNHKの方はなにも言いませんが、ってんだよね。放送がハウルかってんだ。2ピースに無指向が多いのは本当の仕込用だからだね。花瓶のかげに仕込むとか、放送用の名残だね。

◇演歌のコマ
司会:
コマっていうと美空ひばりと北島三郎をまず思い浮かべますが、それほど出演回数も多かったんでしょう?
八幡:
二人は入りもよいから。
野田:
客を呼べないのは公演日数も短くなりますしね。ホールを満杯にするのは北島と美空だった。しかし美空さんも途中2、3年ダレたことがありましたが、すぐ復帰しましたね。
八幡:
「真っ赤な太陽」で盛り返したかね。
司会:
あれはいい曲だった。原信夫の作曲だね。
野田:
美空さんの音響会社も度々変わりましたね。
八幡:
たいがいの会社がしくじるんだよ。
野田:
完璧主義なんですよ。人間の間違いというのを許さない。怖いんですよ。人間必ず間違いというのがあるんだがそれがダメだというんです。お客さんは一回しか本番を見にこないんだから、というわけです。高い金を払って見にきてくれるのにあんたたち失礼でしょう、というわけです。一人一人お客さんのところへ行って謝りなさい、と。常にごめんなさいの一言です。

◇喜劇人まつり
司会:
演歌のコマのイメージが強かったんですが、それ以外にも......
野田:
オープン当時は新派や新国劇に大江美智子劇団もやったこともあります。いろいろな劇団の出し物をやりましたがどうしてもお客さんを呼べない。それで喜劇人まつりというのを企画して昭和34年の第1回から昭和44年まで10年間続きましたね。その間に江利チエミを招いて彼女のテネシーワルツが好評でして、これがキッカケで歌謡ショウの形式が生まれました。 プロデューサーの北村三郎が美空ひばりを呼び、後に北島三郎を、といろいろな歌手を呼んで一度はこの舞台に立たせて育て上げよう、ということからこの形式が固まった。 歌手が持つワイヤレスは必要不可欠のものとなってきましたね。 常にワイヤレスには泣かされましたが、40メガ全盛時代にはいろいろな障害を四苦八苦して克服し、事故の原因追求、改良、改善と手を加え、過渡期の研究の積み重ねによって進歩してきましたね。
八幡:
でもコマは相当進んでいましたよ。ほかの大劇場なんかなにも無かった。館によっては音響、なんて書いてある部屋はあるんだがほとんどが録音のためで放送局用だった。しようがないから花道の脇に陣取ってやるしかなかった。
司会:
400メガから一足飛びに800メガへ飛びますが、さあ楽になったでしょうね。
八幡:
800になったときは、格段の違いでね、安定してきましたからね。
青山:
コンパンダになりましたからね。しかし400の時代のリニアは音が良かった。800になって波数は増えましたが、絶対有線でとらなければならない三味線なんかコンパンダでやるとアタックが強いからパコパコしちゃってね。
野田:
音にならない。
青山:
止めてくれ、って言うんだけど、どうでもいいからビジュアルなんだからやってくれ、とね。

◇コマの台本
青山:
最初コマでやってびっくりしたのは台本の書き方なんです。ミキサーの覚書で、上げるのは○、下げるのは▽、これは他でもやっているかも知れませんが、あの台本はトチらないようになっている。○の中にマイク番号、これはトチリにくい。さてトチリますと次が出ない。みんな真っ白になっちゃう。由利徹だったかな、もう一回言おうか、と助け舟を出してくれる。あの人はいい人だったな。
野田:
にくめない人だったね。芝居を自由にコントロールしちゃうんだ。貸切の芝居なんぞ、今日はまくぞ、と。1時間半の芝居を40分くらいでやっちゃう(爆笑)。

◇とんでもないこと
野田:
ワイヤレスの受け渡しの方法を考えて香盤表を作らなければならない。単に受け渡しだけならいいんだけど、誰それの使ったマイクはイヤだとか、まあ厄介です。少ない台数を沢山の役者で持ち回るんでモメましたね。
なんの時だったかな。仕事が終わりやれやれ、というときマイクの本数が合わない。どうやらマイクつけたまま帰った人がいるらしい。受信機に音は入ってくるからまだ近くだろう、というわけで数人でトランシーバーと受信機を持って歌舞伎町を追いかけた。
散々歩き回ったけど分からない。
それで受け渡し箱を作りましたらうまく行くようになりましたがね。

爆笑物の話はまだ続きますが紙面に限りがあります。
新宿コマは半世紀にわたって庶民に憩いの場を提供してきました。日本の歌謡史に残る功績といえましょう。跡地に今度はどのような施設が現れるか、楽しみというところです。
注(1): 
トッドAO「オクラホマ」1955年 監督フレッド・ジンネマン 音楽、録音のアカデミー賞受賞作 70mm作品
注(2):
菊田一夫作「葉室烈人の恋」演出 久保田万太郎、出演 榎本健一、古川ロッパ、トニー谷、益田キートン他の豪華キャスト
 
  
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