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八幡 泰彦
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明けましておめでとうございます。この二月は旧暦のお正月になりますので改めてご挨拶をいたしました。稿を重ねて丁度切りが良かったのは前号までのことでした。稿をあげてしばらくして気がついたことはこの記事が掲載されるのは新年号になることです。で、一寸間の抜けた挨拶をさせていただきました。
自分の辿った道程を振りかえることは将に初めての経験で、読み返すとこの寒さに係わらず冷や汗が出る思いがしてしまいます。実際1975年までは日記と言えるものが、予定表を含めてほとんどありません。このまま進むべきか、なんとかこの道一筋に歩くことができるのか全く自信もなかったし、判らなかったこともありますが、大体日記をつける習慣もなかったことが原因だと思っています。
1955年に高校を卒業して以来の足取りを反省すると、特徴として云える事は自ら飛び込んだ世界は一つもなかったことでしょう。そもそも最初のバイト先だって親の紹介でしたし、大学に入ったのも楽な路を選んだ結果でした。そのあと演劇研究会に所属したのも「西遊記」にある、呼ばれて返事をすると吸い込まれる瓢箪に出会ったみたいなもので、結果自発的なものであったとは云いがたい。さらに思えばこの道に至る最初のきっかけを〈ラジオの組み立て〉にまでさかのぼれば、これだって偶然家のラジオが無くなって、父親に「組んでみたら」といわれたことから始まったことでした。C&T、カットANDトライという、いわば野蛮ともいえる方法がありますが、本も読まずに闇雲に進んで、困ったら人に聞くといった性格はこうして形成されたのかもわかりません。
マグネチックスピーカーの音が悪くなったのを直して欲しいという注文が結構ありました。最初のうちは安いものだったので新品に交換したものでしたが、故障したといわれたものを鳴らしてみると小さいが音がでている。ポールピースが偏っているように思えたのでドライバーの先を押し込んだら音量が出た。Gペンを2枚使ってセンターを取り、スピーカーの駆動軸のハンダを溶かして固定しなおすと一丁あがり、ということを発見して一人喜んだのも中学生の頃でした。しかしこのやり方はダイナミックスピーカーには応用できなかったこともあって、マグネチックスピーカーと共にいつか忘れてしまいました。
これに似たことは運動会でもありました。
中学校に入学したその年の秋の運動会の種目に計算競争と言うのがありました。大体運動は苦手で殊に徒競走はいやでした。動物としての能力を誇り、知性のかけらもないなんて理屈をつけたりしましたが本当のところはどうしても早く走ることが出来なかっただけの事だったのですが。それが二桁の掛け算の問題がコースの途中で出されるのでそれを解けば良い、正解の人の着順で入賞を決めるというものでした。下校の途中で「神尾式暗算法」と言う計算の方法の指南書を販売している人がいました。毎度繰り返す口上が面白くて飽きずに何度も立ち止まったものでしたが、それが使えるなと計算競争と聞いたそのときに将に雀躍りせんばかりでした。
予行練習の当日一緒に走るメンバーは足の速いやつばかり、ただ走るだけなら私はいつものように連中の引き立て役になるに違いない。今に見ていろと走りました。問題が書かれているボードの前までは団子になって着き、神尾式で問題を解き、見事2着でゴールインしました。練習とは言え我ながら満足しました。
翌日は運動会の当日で、前日の興奮を残したままスタートラインに着きました。ちょいと遅れをとって問題を見たら愕然となりました。昨日の紙がそのまま下がっているではありませんか。呆れた分だけ遅れをとり、ビリになりました。
基礎をしっかりしないと応用が利かない。こんな単純な、しかし透徹した原理に気がつくのには更に多くの時間を必要としました。
9、1960年秋 承前
園田先生に就くことになってから、ほんとに忙しい毎日になりました。
駅の伝言板はシリーズ物でその後一年ほど続きました。撮影したものを編集してラッシュを見て打合せ、音を準備してアフレコが終わったらダビング、そして納品と言う手順は今と同じですが、初めて見たプロの世界の手順や段取りのよさには眼を見張ったものでした。スタジオの場所は銀座にありました。名前は銀座スタジオで、電通の関係会社のものだと教わりました。歌舞伎プロは松竹大船出身の人たちでスタッフはみな気持ちのいい人たちでした。助監督の人たちはダビングの当日になると調整室よりもスタジオに来て「生音手伝おうか」実にこの生音のつけ方の要領がいい。お任せしますと云って見学するようにしたら先生に怒られた。あとで見えてきたのはどうもスタジオで休むのが目的だったようでした。
当時山王下にあったアオイスタジオで学研の教育ものの音付けをしたり、新橋にあった朝日録音や銀座8丁目の燃料会館地下の21スタジオにご厄介になったり、それこそ眼が廻るほどの忙しさでした。
度々橋のスタジオでは反戦物のダビングを経験しました。この作品のナレーターが酒を飲みだして、「我軍は」とか「赫々たる戦果」とか原稿と違うことを言い出して、そのうち泣き出したのにはびっくりしたものでした。
この間先生にはいつも言われたことでしたが、「君は学生なんだから優先すべきものを大事にしなさい」。しかし連日のように変わるスタジオや内容は優先すべきものを決める決定的なものとなったようです。
この頃アオイスタジオでの仕事が一段落したので先生にことわって議事堂前に出かけました。劇研の仲間が安保反対のデモに参加しているのに合流しようと考えたのです。議事堂前に着いたときは埋め尽くした人の波に驚きました。なんとか劇研を探し出して参加できました。この日のデモは新劇人のグループに右翼が釘を打ち込んだ棍棒で殴り込んだり、樺美智子さんが死んだり大変な一日でした。結局朝まで広場にいて、無力感に苛まされたことを憶えています。
気がついたら「演劇」よりも映画のほうが多かった。園田先生は演劇の音響効果のベテランと聞いていたし、そのつもりでいたのですが、芝居の匂いに浸ったのはその一月だけでした。しかしそれからの、映画の世界の仕事にはこんなにプロの人たちがいるのか、プロが使う器械はこんなに凄いものなのか、プロの手順は、等など感心する暇もありませんでしたが夢中で仕事に入っていったようです。ようですというのもその頃のことは殆ど憶えがなく、母親に聞くと「いつも興奮していた。一所懸命喋るんだけど中身がわからなかった」と、つい最近まで話してくれたものでした。その母親も今年三回忌をむかえます。
東横ホールで尾上九朗右衛門さんの赤螺蠣太と言う芝居をやるんだけど、と言うことで初めてお芝居の仕事が来ました。東横ホールも歌舞伎座と同じで効果室はありませんでした。舞台を正面から見ることが出来るだけ歌舞伎座より有利でしたが、それでも使い辛かった。音楽出しが印象にあるだけの軽い作品でしたが何しろ舞台を見ているとテレコの手元が見えない。ミキサーの操作も儘ならないなど、不自由この上ないものでした。言うなれば「文句言う前に慣れろ」「こなしてから文句いえ」の世界でした。
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