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八幡 泰彦



8.1960年秋 プロの世界に弟子入り(2008年から48年前)
 園田芳龍先生に私を紹介してくれた友人のA君の話では恐くて厳しい人だということでしたが、お会いしてみると穏やかな感じだったのでほっとしました。しかし最初の一言が「時間にルーズでは困る」とのことで、これは一瞬恐い顔をされたことでもあり、後々まで強く思い出される言葉になりました。

 歌舞伎座の公演はもう始まって幾日か経っていると言う話でしたが、楽屋口から入った舞台裏は静まり返っていました。カウンターのような、受付のようなところに人がいて、先生が挨拶すると愛想よく応対をしましたので、なるほど年季が入っていると違うものだなと思いました。黒ずくめの着物を着た人が「先生の新しいお弟子さん?」と聞かれて、先生が頷き返したのを見た私は「そうかやっぱり弟子入りしたことになるのか。引き返すことは出来ないぞ」と覚悟しました。この後先生に、この受付みたいな所は頭取部屋、座っている人は頭取、前に置いてあるのは香盤、黒ずくめの人は狂言方=演出助手と舞台監督を兼ねた仕事をする人と教わりました。
 舞台を、対角線をなぞるように横断して上手の小屋みたいなところに行きました。草履を履いてそこの二階に上がる梯子の下を掃除している人がいました。田村です、とその人は言いました。このことがこれ以後ずっと先輩として私が彼の後を辿ることになる田村悳さんとの出会いでした。芝居の演目は大仏次郎作の「殺生関白」で、市川海老蔵主演になるものでした。関白秀次の最期の悲劇で「よく出来ている」と先生は言いました。そして今日からこの田村さんの傍について色々教えて貰いなさいと言いおいて先に帰られました。

 この日以来「プロの路」に入ってしまったことになるのですが、本人全然そんなことに自覚はなく、ましてやその日の朝、いつものように目覚め、いつものように何気なく出かけたのですから、その事にはまったく思いも及びませんでした。
 この稿を書きながら、この日が自分にとって非常に意味のある日だったとの思いが湧き始めました。いうなれば自分にとっての記念日とすべき日だった。なぜそのことをどこかに書き留めておかなかったのか。悔やまれてなりません。実のことを言えば、正直な話、その日は〈戻れない日〉になるのかなといった程度の不安感は感じていたものの、自分から望んだことではないし、待ち焦がれていた日でもなかったのです。A君と歌舞伎座へ向かう道すがら、彼からプロの世界の厳しさや恐さ、スケジュールや時間についての心構え、服装や挨拶、言葉遣いなど聞かされて、段々後悔と不安感が募ってきましたが、それらが極限に達する前に件の喫茶店に着いてしまい、最初の一言に出逢ったことは既にお話しました。
 この日を記念日としたいことは三つあります。一つは園田先生をA君が紹介してくれたことと二つ目は田村さんに出会ったことです。三つ目は「摂政関白」ですが、これについてはその時が来たら触れることにしましょう。
 この日以降先生の言いつけ通り約二十日の間通いました。

 通っている間、田村さんのオペレーションを見学しました。これが飽きると思ったら飽きない。
 一日一日が発見の連続で面白く今で云う「はまり」こんでしまいました。音出しの器械はデッキ型の6mmのレコーダーが一台とレコードプレイヤーが一台、4チャンネルのミキサーであとにアンプ(サンスイ、35/35)とスピーカーが系統ごとに組まれているとの事ですが、確認することは出来なかった。何しろ音響操作のための部屋は狭く天井も低く、舞台はここから覗くといわれた窓は高さ5、6寸、幅二尺ほどで黒い布が短い暖簾のように下がっていました。四十年ほど前の田村さんは何しろ格好が良かった。体育会系の体型で、劇研では到底見かけたことはない、どちらかといえば粋な感じの方でした。僕はこういうタイプは苦手で気後れがするし、人見知りが強いほうでしたから、無口になってしまいます。で、黙っているほうが多い。ある日田村さんに「君は園田さんのところの人?」と突然聞かれたことがあります。僕は田村さんは園田先生のお弟子さんだと思っていたのでしたが、この一言でそうではなかったんだと解かりました。「そうです」と答えたのに、返されたことは仕事にするには相当な覚悟が要るということでした。それはA君にも言われたことで既にその覚悟は出来ていた心算だったので「エエ」と返事しましたが、田村さんの、腑に落ちないのか曖昧な表情はどんな意味があるのか一寸気になりましたが、それから二三年経った後になって、あ、このことかと気が付きました。
 歌舞伎座での修行中、先生が来て、試写があるので歌舞伎プロに来なさい、歌舞伎プロの場所は誰かに聞きなさいと云い、忙しく行ってしまいました。試写と言うからには映画のことに違いないと思って歌舞伎座を出ました。試写室があるのは東劇か松竹本社かと聞いて廻ってやっと歌舞伎座の中にある歌舞伎プロに辿り着いたのは小一時間も経った後でした。噴火寸前のような先生に会いましたが、歌舞伎プロの人に「もう一度この人に見せてやって」といって別の小部屋に行きました。その部屋で見せられたのは16ミリのテレビ番組の「駅の伝言板」というものでしたが、今となってはその「筋」も「長さ」も思い出せません。歌舞伎プロを出て「どうして遅れたの。」と聞かれて試写室探しで手間取ったこと、歌舞伎プロを探すのに苦労したと弁解ととられたくなかったので手短に説明しました。目的の場所探しの手順が違うことを殊に指摘されて、「大学じゃ教えてくれないだろうね、こう云うことは」と嘆くとも呆れるともつかない表情をされたことは今でも覚えています。
 “弟子の仕事”は雑巾がけや犬の散歩だと教わってきた私の覚悟はどうやら違っていたのかと思ったものでした。その後何度も折にふれ先生に叱られたり注意されましたが、それを重ねるたびに、“弟子”の立場と意味を考えるようになり、怒られるのは辛いけれど結構自分にとってはそれが意義のあることになるに違いないと納得しました。2年ほど過ぎたときに先生が「よく我慢していられるね」言われたものですが、その意味がわからず「エエ」と曖昧な返事をしました。


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