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八幡 泰彦
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7.〜1960続き
録音機は東通工のKPでした。初めて見たプロ用の堂々たるものです。大きなレバーのついたメカ部分とVUメーターを備えたアンプがそれぞれに分かれてケースに収められている。そのアンプ部分のコネクターに直接マイクをつないで使用するものでした。
「そのマイク何だか判る?」大河原さんにニコニコしながら聞かれて、とっさに質問の意味がわからず黙っていると「それね、コンデンサーマイクなの、高いの」「使ったことある?あ、知らないの」「インピーダンスが低くないと引き回せないの」
要するに知っている筈のことをテストされたのでしたが、上の空だった。
モニターはヘッドフォンでして、再生時にスピーカーで聴くスタイルだったか、これも今となっては朧気な記憶です。
スタジオの窓からは春の花が咲き乱れる庭が見え、暖かな良い天気でした。テープレコーダーには最後まで触らせて貰えなかったけれど、プロ用の器械には一寸こわく、手を出すことが出来なかったのが本音でした。
てんやわんやの内に6時間ほど掛かって録音が終りました。オーケストラの皆さんに飲み食いの世話はどうしたのか全然記憶がありませんが、休憩になったときのタバコの煙の凄かったことはなんとなく憶えています。
終わってからスピーカーから流れた音の良さに驚かされ呆然とし、突然再生はどうするのかと云う事が嵐のように巻き起こり、頭の中が真っ白になりました。
再生は807PPが一台しかない。トランペットなら何とか鳴らせるがとうていHi-Fiとは云いがたい。なんとかしなくちゃいけない。
考え込んでいるところにいずみ先生、「良い音で鳴らしてくれよ」とニコニコしながら、無情にも「当日は聞きに行くから」と更に追い討ちを掛けてくる。「あ、それから頭から8小節目のところで打つはずのシンバルが入ってないの、打楽器の人に聞けばわかるからナマでやって呉れないかな。よろしく」だと。
黙ったまま頷いたけれど、「あの時は顔が引きつっていたぞ」と、10年後また仕事でお会いしたときに言われたものです。
次ぎなる問題は音楽の再生です。音楽の再生はバイト時代に経験していた筈だけれど出力25w程度の家庭用で劇場用ではないし、劇場で使うものとしてはミキサーまでで、劇場で使われるシステムについては全く知識がない。「検察官」の「音」は音楽が殆どで効果は“ない”に等しい。
それから1ヵ月は資料調べやラジオ屋を尋ねたりの毎日でした。その頃、アンプやスピーカーを貸出してくれる所は調べようがなかったので途方に暮れるしかなかった。見るに見かねてか「効果の専門家に聴いたら?」と言う人がいたけれどそんな大それたこと出来る訳がない。
この後に来る「編集」も初めての体験で、デルマトグラフ(マーキング用の鉛筆)やリーダーテープもスプライシングテープも編集用の鋏も、在ることすら知りませんでした。マザーテープを受け取って後どうしたのか。本番直前だったことや、機材の用意も手配も全てが一緒に押し寄せてきてパニックだったことは想像するまでもありません。
公演当日は借りてきたウーファーとトランペットで音質はともかく音量は何とかしのげた。(曲の頭がホルンなので無難にはじまった。)シンバルの件では、オーケストラからは断られ、自分が舞台袖で楽器屋から借りてきたシンバルを打つことになりました。本番二日目、音楽で登場、までは良かったのですが、拍手が来ちゃった。これで音楽が聞き取れなくなり、もう何がなんだか解らないまま、ジャーンとやって、頭の中は真っ白になった。
いずみ先生は感想として学生のやることとしては努力を認めるが、一度プロの方に相談すべきだったね、とのお言葉でした。
その後、劇研は秩父事件を扱った「秩父困民党」、アーサー・ミラーの「るつぼ」と大作に取り組み、瞬く間に3年生になってしまいました。
劇研に入ってからの経験は実に得がたいものでした。バイトの約2年間は技術の上で眼を開かされたことで貴重な経験をしたのでしたが、大学に進むに当たり理系よりも文系を選んだことは「楽な道」を選択したと思っていたのに、案に相違して茨の道だったと気がついたのは40年ほど経った最近になってのことなのですが。
前々号で「長い墓標の列」に効果として参加した話をしましたが、その折「宿題」として残ったものはレコードのリフレインでした。これはレコードの上に重ねたセルロイドの下敷きを利用した盤で解決したのですが、かけるたびにレコード盤が消耗するのはプロのやり方ではないと後で批判されました。
もう一つこれは当時モヤッとしたままで過ぎたものでしたが、音(物音:効果音)には何かがありそうだと、まだこの時にははっきり云えないけれど、感じたことです。
それやこれやで3年目も過ぎようとする時、大道具を担当している友人に「効果」の大御所である園田芳龍先生に紹介してあげようかと声を掛けられました。このまま卒業して会社勤めをするのか、それとも音響効果のプロを目指すのか、いずれにしても正念場はすぐにやって来る。
これには参った。劇研では前人未到の地にやっと到達したのに、しかしここにこのまま居続ける訳にも行かず、さりとてわざわざ先輩の犇めく音響効果の世界に首を突っ込むのもどうかと多少怖気づいたけれど、エイ、ままよ!と観念して、まな板の上の鯉になるつもりで出かけました。
この頃の「効果」は園田芳龍、吉田貢、岩淵東洋男、加納米一といった方々が現役で活躍していて、舞台裏には効果操手の人たちが大勢控えていると聴いていましたから、相当に恐かったのは本音でした。
歌舞伎座に来るように云われ、友人と一緒に出かけました。約束の時間に一寸遅れて歌舞伎座の裏の喫茶店に着いたところ、先生は既に座ってニコニコしていました。すぐに始まるからもう行こうかと席を立たれ、そのまま私は友人と別れて歌舞伎座に向かいました。二人で歩きながら「時間を守るのは大事なことだ。」といわれたのには返事に窮しました。
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