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八幡 泰彦
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5 1955年秋 承前
私はアークの点燈を見たのは初めてのことで興奮したもののGIさんに感謝するのも変なのでしらけっぱなし、電話を掛けにいったまま帰ってこない先輩を待つのも辛くなってそのGIにサヨナラを言おうとしたところ、その彼の人相が突然変わり「帰るな、引き受けたからにはキチンと直せ」と険悪な眼つき。仕方がないのでプロジェクターの雲母窓を覗くと、今、将にアーク棒がくっ付く所だったので原因はこれかと納得。プロジェクターの前方下側に径が違うギヤが2段重ねになって斜めにチェーンで連結されているのを見つけた。手で廻してみると間違いなくアーク棒の送りの仕掛けだとわかった。くっ付いて駄目になるなら速さを変えればよいのだから、ギヤの組み合わせをいじれば解決する筈だ。簡単じゃないか。点火して観察してみると2回ぐらいでうまくいった。殆ど眼が釣りあがり、白狐モードになっているGIに指で丸を作り、OKといいました。そこに先輩氏が帰ってきたので今までの説明をして工具箱を片付けにかかったところ、GIと先輩氏が言い合いになった。先輩氏の語学力とGIの迫力に見とれつつ喧嘩の理由を聞いたら、お前たちは信用できない。チェーンの掛け替えでは修理したことにはならない。インチキで金を取るのか。わかるように説明しろと云っている、どうなっているんだと先輩氏が私に怒鳴った。突然敵が二人になったような塩梅になってきた。
この始末がどう付いたのかは憶えていませんが、帰りの道々先輩氏がアークの温度(光量)がどんな具合かに先ず気が付かなければいけないことや電源やアークにかかる電圧を測ること、ドライバーや外したビスの始末などは誰かが必ず見ていることなど教えられました。アマチュアとプロの違い、プロの心得を教わった初めての体験でした。生半可な知恵で失敗した一幕です。
テレビの販売の方は17インチが標準品でしたが新たに企画した21インチの注文が急に増えたとかで、ブラウン管の倉庫が手狭になり同時に製作場にも苦労するようになりました。しかし不自由だろうと忙しかろうとバイト君としては毎日が面白くて仕様がない。テレビは17インチがベースなので、そのままでは21インチのブラウン管は乗らない。高圧も電圧が足りないようだが構わない、櫓を組んで乗せちまえとシャーシーを加工し、箱はキャビネット屋に特注し21インチブラウン管を乗せた〈アメリカ製〉大型テレビができました。確かに主要部品とあらかたはアメリカ製ではあるけれど箱の底や裏にたまに日本語が墨で書かれたままになっていることがありましたが、良く売れて滅茶苦茶に忙しくなりました。
大森の方にそのテレビを買ったお客さんがいるので据付に行って欲しいといわれ出かけたことがあります。
地図にある住所を尋ねながら辿りついたら友達の家でした。彼は小中高と一緒で、今年私は浪人し、彼は早稲田に現役で入学したのですが、将にその家でした。改めて見回すと広くてキチンと作られた立派な屋敷でした。本人がいないといいなと思いつつ玄関を開けて声を掛けると本人が出てきた。
「M屋デパートですが、テレビ持って来ました。部屋何処ですか。明るいほうにテレビを向けないでください。」ファストフード店のマニュアルよろしく口上を述べ立てながら手際よくセットしたのですが、錯乱して上がり気味になり調子が狂い勝ちになるのを抑えながら毛布を出してもらって部屋を暗くし、アンテナを屋根の上に上げ、同僚と上と下とで怒鳴りながらアンテナの方向を決め、友人があっけに取られているうちに請求書渡して帰って来ちゃった。思わぬ出来事に出会った、そんな一幕でした。
後になってそのときのギクシャクした私の対応について彼には何度もからかわれたものです。
そのしばらく前、工場の2階から素晴らしい音が鳴り響いたことがありました。気になったのですが、テレビの据付に出かける用意をしている最中だったのでいつかそのまま忘れてしまいました。
素晴らしい音といえば、高校一年の頃だったか、理科の先生に「家に遊びにいらっしゃい。いいものを聞かせてあげよう」と言われ、何人かの友達とお伺いしたことがありました。先生何も云わずにレコードを掛けた。ハチャトリアンの「剣の舞」で煌くような高音部、これが、謂うところの「ハイファイ」を至近距離で聴いた最初の体験でした。ピックアップはスタックスのコンデンサー型で、針圧は0.5グラム。これから出た音を聴いた時はなんと言うべきか。高いほうが気持ちよく伸びてキラビヤカであることや素晴らしい音質であることは判ったものの、どうもしっくりこない。何故なのか判らなかった。
また中学3年の頃近所に住んでいる電機大に通っていた、少年倶楽部の表紙みたいな秀才のお兄さんが「学祭に一寸したものを出したので見に来なさい」と言われてその大学に行ったことがありました。教えられた教室に入ると壁面を覆うようかのようにスピーカーが取り付けられたボードが眼に飛び込んできました。6吋半のスピーカーが8×12、96個、その物量に驚かされ、音量に仰天したものの、さっきのハイファイ体験のときと同じで少年にはズンと来なかった。多分オーケストラの音がごちゃごちゃしていて良くわからなかったことがその理由だったのかと思います。9月頃の暑い盛りの教室にはクーラーもなくじっとしていても汗が止まらず、ドライブするアンプの数も尋常ではなく、それを冷やす扇風機の数に感心したことやそのお兄さんや友達が凄く興奮していたのも憶えています。でも、驚きと感動は明らかに別物だとわかったことは一寸大人になったことなのでしょう。
そんなこんなでめまぐるしい毎日が続きました。秋が去って冬が来ても忙しさは変わらず、テレビは順調に売れ続けました。私はこの時まで自分自身からだを動かすのがこんなに性にあっているとは思ってもいなかったので少なからず驚いたものです。そう、毎日が楽しくてしようがなかったのが本音でした。
ある日、工作場の隅で何か組み立てている人がいました。ヴォリュームコントロールらしきものが斜めのパネルに8〜9個付いていて、その頃の私は初めて見るものでした。
ミキサーというものでこれは劇場で使うものだと教わりました。で、この後どうなる?
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