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八幡 泰彦
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3 1950年から1957年
準備や下調べは面倒で材料が揃ったらドン!という弥次喜多根性というよりいい加減な性格はその後順調に成長して結構数をこなすようになり、五球スーパーなら約三時間で、配線図を見ることなしに組上げられるようになりました。実体配線図という、手取り足取り親切無比な案内図から離れ、いっぱしの技術を手にしたかのような自惚れがあったと思います。モノクロの14インチのテレビが3万5千円で古鷹無線、ロケット商会、東映無線、東大電気、3Qなどといった各社から盛んに組みキットで発表されたのがこの頃でした。3Qやスターのものは当時でも5万円以上する、まるで高嶺の花でした。日比野さん(ヒビノ株式会社取締役会長)が昔手作りされたものを会社のショーケースに置かれたものはこの時期より前のもので、それこそ技術的にも一里塚的にも素晴らしいものです。ヒビノに行かれることがあったら感心していらっしゃい。その約4万円弱のキットを組上げるのには2週間ほど掛かりましたが、手間賃として1万円ほど頂くことができました。それでも10万円ぐらいするものが約半額で出来るのだから喜ばれたし、私も喜んだ。
そんな感じで組み立て商売も悪くないと思っていたところ、ある日家電メーカーからプラスティックの洒落たケースに収められた5球スーパーが発売されました。これには驚きと絶望のパンチを喰らいました。デザインはPHILCO社並みの洗練されたもので、値段が3千8百円。ラジオの組み立てはもう駄目だ。がっかりしたものでした。テレビのほうも値下がりが始まり、注文もそうはある訳がない。そこへ持ってきて、知り合いの偉い人が「男は東大か一橋」といわれ一挙に自信喪失したものですが、自殺までは考えなかった。思い詰めることを知らなかったし、逆に浪人も悪くないなと思ったりして、これを転機に秀才の道を探ろうなんて向上心は、今考えると何処にそのカケラがあったか判らない。まるで転がり落ちるように18歳の春を迎えました。浪々たる青春はあてどなく砂漠を彷徨うがごとしか、と思ったら「遊んでいないでアルバイトでも考えなさい」との一声で遊んでいられなくなった。1955年春のことでした。
4 1955年春
藤田西湖さんという忍術の研究をしている第一人者の方がいて、父親に連れられて根岸だったかにあったお宅にお邪魔したところ二人の技術者然とした人がいて、それがそのまま面接ということになり赤坂にある事務所に行くことになりました。
夢に見た浪々飄々の生活は木っ端微塵になり、会社勤めの始まりになりました。朝8時半始業、夕方6時まで仕事と云う規則正しい毎日で、過怠なく勤めれば給金は4千5百円。3時間で3千5百円を稼ぐ事が出来る人だぞ、私は。引かれ者の小唄、ごまめの歯軋りに違いないが、ま、仕方がない。事務所は赤坂のロータリーのあたり、丁度佐野周二主演の青春映画「お嬢さん乾杯」(懐かしいでしょ)で原節子?をスクーターに乗せて得意げに運転していた、その辺りでした。現在東急ホテルがありますが、工場はその裏あたりになるのでしょうか。
仕事場はニューラテンクォーターの脇の坂道を一寸入ったところにあり、そのまま行けば日比谷高校に辿り着く道ですが、その途中を左に入った、中庭に池のある敷地でした。池を挟んで工場と倉庫があるそんな佇まいでした。工場は2階建てで1階はテレビの組み立て、2階は試作研究をしているところと教わりました。テレビはアメリカのブランドで17インチのものでした。当時市販のテレビは14インチが殆どで、それより大きなものは珍しかった。更に21インチのものを計画していると聞いて驚きました。
2階は試作研究室で、覗いてもつまらないといわれましたが、これが後で私にとって大きな意味を持つことになるとは思いもかけませんでした。
このテレビは大分人気が高かったようで15人ぐらいの社員はみな忙しく働いていました。のっけから配達据付、修理と眼が回る忙しさで人生の目的とか来年受ける大学のこと、その傾向と対策については考える暇も余裕もないBST(血と汗と涙)の毎日が始まりました。私は一番年下で、社員の人たちは25歳以上のおじさんばかりでした。最初のお給金を頂いたときの4千5百円の重さは今でも懐かしく思い出します。
この会社の行動範囲は幅広く、何でも出来るように見えました。専務さんは日活のスタジオでミキサーをやっていた人でアイデアマン、社長さんは英語ぺらぺらで凄い人、技術の部長さんは地道で変わった人だから用心に越したことはないと入る早々親切そうな人に言われ緊張したものでした。この社長さんと専務さんが忍術の先生宅でお会いしたお二人でした。
さて、この会社が夏の最中に引っ越すことになりました。道路が拡幅するそうで、世田谷の奥にある機械工場の一角に移ると云うことで通うのが大変なことになる。今までならここでいやになる筈が、やる気モードになって来たのはどう云う事なのかしら。渋谷から三軒茶屋に出て玉電に乗り換え、世田谷の上町で降りて弦巻町。ど田舎。草茫々で人気なし。入道雲に蝉の声。何時の頃か感じた開放感。機械工場の中はシ〜ンとしていて、油のにおいがして職人の肌を感じました。
何でも出来ると云うのは言い方であって、なんにでも手を出すといったほうが正しかったのでしょう。それなら今と変わらない。どころか、この頃刷り込まれたDNAだったのかもわかりません。
例えば季節は秋だったか、横須賀のアメリカの海軍基地に行けと言われて技術のベテランさんと出かけたことがあった。守衛の所で一寸話したベテランさんが戻ってきて「映画館だって」といい、そっちに向かった。道々拡声装置の故障ではなかったのかと聴いたら映写機のことらしい。映写機のことだとしたら、ベテランさんは、「僕は全然判らない。困った。」と呟く間もなく着いてしまった。GIが出てきて、「上映中にランプが消えてしまうから直せ。」という。我は音屋であると言いたいが言い回しもわからず、棒立ちになっていると、先輩は「電話してくる」といったなりどこかに行っちゃった。私一人になっているとそのGIがこっちに来いと顎サイン、プロジェクターの足元のスイッチに手をかけ、電源を入れた。胴中の窓を覗きながら左右のノブを廻している。やがて眼元が明るくなり、覗けと身振りである。見ると2本のアーク棒の先端の間隙から光り輝いていた。アークの点燈方法も何もかも初めてだったが、感動や興奮を感じ取られてはまずいと思って落ち着き払って頷いて見せたものでした。
で、どうなったかは次回。
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