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最終回

「ドキュメンタリー番組取材方法の改革」     
名作『Uボートの遺書』はこうして作った

田中 章夫


 タイトルの「私とマイクロフォン」ですが、私自身がマイクを使用して番組を制作していたのは40年前の10年程度です。そんな私が特ラ連の仕事をしているとは、ある面では申し訳ない気がしております。ましてや、そんな私がマイクとの関わりをお話しするのは長い年月をかけて技を磨かれた諸先輩の皆様には申し訳ない気がしております。
 しかし音声の世界に身を置いた一人の人間の歴史と将来のワイヤレスマイクに対する、情熱を読みとっていただければと思って、恥ずかしながら書かせていただきます。

1.放送局の音声技術者とは
 さて、私を育ててくれた、放送局から見た、マイクを使用するミクサー(時にミキサーという方もおられますが、NHKの我々が現役時代にはセメントなど固体・液体の様な物量を調整するのはミキサーで、音と云う感性に訴えるものの調整するのはミクサーと定義したことを思い出します)音声技術者はラジオの時代からテレビの時代へと大きく変わってきました。

 今から40年位前までは、放送局の音声(ここでは音声担当者に限らせてもらいますが考え方はカメラ、照明、VE(ビデオ・エンジニア)も同じです)を現業技術者と一括して呼ばれていました。現業という芸術性を持った技術者でした。
 当時の放送局は現場でも技術者を必要としていたのです。何故かというと、スタジオのほとんどの機器は、真空管を使用しており、S/N、伝送系を含むダイナミックレンジなどスタジオから家庭までの電気的特性を熟知して、スタジオ設備など故障したら、直ちに自ら修理する必要があったのです。この技術力を持ち合わずして、放送番組を家庭にまでより良い状態で送り届ける事が出来なかったのです。
 同じ技術者だから、現業技術者も無線技術従事者国家試験を受ける必要もあったのです。反面、現業という言葉は芸術性も兼ね備えてないと駄目だと云われ、文武両立の努力をしていても、当時の放送局におけるポジションはハード系の技術者に比較すると現業技術者は低くい時代でもありました。
 
 さて、この放送局の現業技術者の音声担当者(ミクサー)も、私の持論ですがその対応する業務内容から、一つには括れないと思っています。俗に言うミクサーは音楽系の音声担当者を指していますが、私はまず大きくメディアの違いで映像のあるかないかで音声の対応は異なってきます。更に、音楽、ドラマそしてドキュメンタリでも音声の対応は異なってきます。
 マイクを使って、音を収音するという基本動作は同じでも、これらの業務内容によってミクサーの対応は全く違っていると思います。

 一つ例として、ドラマの収音では、テレビはマイクそのものの形として映像には出せない、役者の動きに合わせて、ブーム等の収音機材(仕込みマイクでもマイクそのものは出しにくい)が必要になり、音のオンオフは役者の動く映像に表現を借りることになる。しかしラジオでは極論ですが、マイク一本に対して役者をどう動かすかがミクサーの仕事になります。映像があるかないかドラマのミクシングの仕方が全く異なっていると思います。

 当時、私はミクサーとしてはなかなか認知してもらい難い、現業技術者としてもほとんど評価のもらえないドキュメンタリーのミクサーとして超指向性マイク1本を座頭市よろしく、振り回しておりました。これではどう見ても、現業技術者の風下の遙か彼方の人間としか理解してもらえない感じでした。

2.音声技術者が海外取材に出た
 映像のないラジオ時代の録音構成番組が、テレビという映像付きになった時、ドキュメンタリー番組として、カメラが回っている中で同時に技術的な視点を持って収音する事はもう演出家(放送局ではプログラム・ディレクター英語表示でPD)の片手間では密度の濃い内容には成らない時代に成ることを感じ取った心ある演出家が出現して、音声担当者も技術屋であると同時に、内容に深く関わる取材をするスタッフとして参加することになりました。この必要最小単位のPD、カメラマン、音声でやったら経費も軽減され、3人が一つの命題にそれぞれの力を最大に発揮する事で多方面からの分析も出来て、視聴者にアピールできる内容になる、これからの時代はこれだと私もその意気に感じました。
 それまでのNHK海外取材番組は取材団として団長以下10数人の大部隊でした。
 これではドキュメンタリーの取材に成らないと時代の先駆けたらんとするPDの判断で、この3人の最小クルーでの海外取材番組の提案となりました。画期的なこととして、提案は受理されました。
 と言うことで、NHKで(日本ではNHK、各テレビ民放局を含めて始めてだと思いますが)始めて、昭和40年台前半にPDとカメラマンそして音声(執筆者)の3人でクルーを組んで「Uボートの遺書」という番組の制作で海外取材に出かけました。
 題名の云うようにドイツを中心にイタリヤ、フランス、北欧のロケで、その時持参したマイクはMO−2ECM−50Aの仕込みマイク、それに当時まだ輸入されて間もないゼンハイザーのMKH−805(以下、ゼンハイザーと記述します)で風防とショックアブゾーバー付き、超指向性と言うことで当時としては実に見慣れない細長い形態でした。現在は特に異質ではないのですが。
 録音再生機として同録用ナグラ録音再生機4L型とソニーTC100型カセット録音再生機を緊急予備として持参しました。(ナグラは全く問題を起こしませんでした)

 取材に当たり、上司の方から、日本を代表して行くのだから失敗は許されない、世界に向けて日本製の機材(ナグラを除いて)のすばらしさも示してこいとの事で手持ちの超指向性マイクは使い込んでいるゼンハイザーは止めて、松下製のWM−900にしろとの指示がありましたが、私としてこんな磁石のお化けで重い物は使い込んでおらず、指向性もS/Nも特に良いとは思わなかったのでゼンハイザーにする事にしました。このゼンハイザーは当時、NHKでもドキュメンタリーに使い込んでいる人はほとんど無く、私はS/Nも良く軽量で、指向性が素晴らしいので見栄えの悪さは収音技術と運用方法でそれなりに使い込んで便利に使用していたので、どうしても外すことが出来ませんでした。
 しかし、出発してまずドイツに入ってロケ取材の初日から、故障でゼンハイザーは使用不能になってしまいました。親の教えと上司の言葉は聞かないといけなかったかとしばし反省の日々でした。しかしナグラを除いて、結果は上司の発言通り日本で初めての現業技術音声担当者が海外のロケに出て使用した機材は全部日本製となりました。
 この番組は昭和45年度の芸術祭の芸術祭大賞を受賞しました。番組内容が素晴らしかったことは言わずもがなですが、それに音声技術者として初めての海外取材に参加させていただき、音声担当者の参加による海外取材の新しい門出に花を添えていただけに、受賞は感激でした。その後の、私の人生の一つの節目となりました。

 余談になりますが、当時海外に旅行するのは、今のように誰でもと言うのでなく、せいぜい農協さんが大都市に観光で出かけている程度でした。ドイツなどの取材先で昔海軍、今農協と言っていたのが印象に残っています。
 そういう時代に海外の小さい町まで、技術屋である音声担当者が取材に行くとのことで職場の上司、仲間から各種送別会があり、餞別を頂き元気で頑張って成果を上げろとの励ましは、出征兵士の気持ちになりました。更に、出発時には羽田空港に局長が自ら見送りに来ていただけるなど大時代的でありました。しかし、こんなしきたりは、1年も経たないうちになくなりました。
 さて、故障したゼンハイザーはロケも最終に近づき、ストックホルムでついに使っていなかったこともあって、お荷物になり、員数チェックに漏れてタクシー内に置き忘れ、帰国後上司に報告したら、ゼンハイザーの様な高額な機材、始末書じゃ済まないぞと怒られたのは当然で、万が一出てくることもあるから、暫く修理中にしろ、出て来なかったら自弁しろとの事になり、しばし謹慎。
 後日、別の取材でストックホルムに入った、カメラマンが遺失物センターから引き取ってきてくれました。感謝感謝の気持ちでいっぱいでした。

3.ドキュメンタリー・ミクサーの雑感
 当時、欧米の人の話を収録するのは、マイクを見せても躊躇することなく、理路整然と話をしてくれる事が実に多かった。これは私の分析でありますが、キリスト教等で人前で話をすることに慣れているのかなと思った。正しく「欧米か!!」・・・・
 しかし日本では、10人10色で色々な人がいて、話を聞かせてもらいたい人と雑談では話をしてくれたのに、マイク見たらとたんに話さなくなってしまう。今の若い人では考えられないことが、今から40年前の日本でした。
 また、取材の主旨などの雑談などしてから、では本番と言ったら、さっきお話しした通りです。と言って何も話さなくなる人。だからと云って、初めからカメラ回したら、フィルムは回るは音声テープは回るは大変なことになってしまいます。
 まずは本筋とは別に世間話をして、運命共同体になってから、マイクは目線にはいらないよう、さりげなく収音しないとドキュメンタリーの中身のある話は出てこない。
 これを音は芯で捉える必要なドラマ仕立てにしたら、極論ですが、話など何もしてくれず番組にならなくなります。 
 ドキュメンタリーの音声担当者は、ドキュメンタリーを除く音声技術者とは次元の違う人情の機微に触れてマイクをもって収音することが必要だと思います。
 日本人でもドキュメンタリーの収音にマッチングする人はお年寄りです、聞けば同じ事を必ず繰り返してくれます。

4.これからのワイヤレスマイクの周波数帯を考える
 私の記憶では、ワイヤレスマイクの周波数は大きく仕切ると40MHzから70MHz、180MHz、400MHzそして800MHzとなったと思います。
 800MHzになるとの話が出た時、私は現場から離れていましたが、800MHzになると知った現場の音声担当者からは、周波数が高すぎて減衰して使用出来るか心配だ、それに加えて、FPUと共用波とするのはとんでもない、パワーで負けてワイヤスマイクの使用が限定されてしまうから駄目だと大反対の連呼で、聞く耳を持っていただけない雰囲気があったと思います。
 それから20年近くたった今、死んでも放したくない気持ちの800MHz帯ですが、昨今周辺は色々な要因を絡めて、あわただしくなってきました。当連盟の現在の公式見解は800MHz帯を維持発展させていくことですが。

 新しい時代に向けて、使用出来る周波数資源には限界があり、また、デジタル化のどうしても避けて通れない遅延の問題をどう解決するのかなど、機材の研究・開発は純技術的なものですが、その運用上の必要性を私が40年前に演出家の理解の下で技術屋が海外取材番組に参加したように、技術論だけでなく演出論にまで食い込んで研究・開発をしていかなければならないと思います。
 ワイヤレスマイクの今後考えられる周波数帯域で云えば、これから自由に使えるのはギガ帯の周波数帯域しかないと思います。800MHz帯になる時の反対の大合唱を思い起こします。その時、演出形態にも踏み込んでどう決断するか。
 また、現行のA型ラジオマイクは特定ラジオマイク利用者連盟を柱にFPUと限られた周波数資源を共用して、限られた資源の効率的な運用実態と実績を残しており、世界に誇れるシステムだと思います。この実績を活かして、関係する機関で周波数資源の共用も検討する余地はあるのではないかと思います。
 日本のワイヤレスマイクの免許に対する考え方は諸外国に比べて大変自由度の高いものと聞いておりますが、諸外国との摺り合わせで云うと、島国的ではないかと云われています。行政面でも出来るところから改善していただければと思います。
 そして、将来は全世界共通の周波数帯域で全世界の音声担当者が使用周波数帯域で労力を殺がれることなく、素晴らしい作品作りの出来ることを願ってやみません。


田中 章夫    略  歴
 1939.7.16生
 テレビ放送が開始され、10年経って頃、ビデオエンジニァーを志して、昭和37年NHKに入局しましたが、運行系を経由して、映画産業が斜陽になる中、NHKでフィルム録音の世界に入り、フィルム音声の延長上でドキュメンタリーの音声を担当して数多くの作品を制作しました。
 今回書かせていただいた「Uボートの遺書」で芸術大賞を頂いてから徐々に現場を離れることになりましたが、音声からはついに現在に至るまで、足を洗うことは出来ずにおります。
<主な職歴>
 NHK放送技術局長、(株)NHKテクニカルサービス専務取締役、(株)ネオテック社長、(株)スムック・(株)サークル両社の顧問を経て、現在は特定ラジオマイク利用者連盟専務理事。

  
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