2015年5月1日 第144号  前 目次 次
ちょっとブレイク
 このコーナーの原稿依頼の話がついに来てしまいました。
 自宅でボーっとして何気なく呟いている私を見て妻は、「実家に帰った時、こそこそ単車に乗っていて私にばれてしまった事でも書けば」と笑いながら言いました。そう、そんなことがありました。
  そこで、その単車に思いを寄せていた頃のことを書いてみます。
私がまだ中学生の頃、高校生の先輩が、彼のお兄さんのナナハンの新車(HONDA K0~ケイゼロ)にまたがり、中学校のグランドにほぼ毎日乗り込んできて、オートバイの事を中学生の我々に説教する日がしばらく続きました。当然ですが学校から注意を受け、その後はさすが校内乗り入れはやめましたが。
 ほぼ同じ時期に、後の義兄が愛車KawasakiのW1というオートバイを購入し通勤に使用し始め、ますます興味がわくようになりました。
 小学校低学年の頃、よく叔父の125ccのオートバイの後ろに乗せてもらい、方々連れて行ってもらいました。そのころからオートバイに興味を持ち始めたのです。
 高校生になってからはオートバイの免許を待ちきれずに、誕生日前から自動車学校に通いました。当たり前ですが、16歳の誕生日が来るまで免許交付は無理でした。
私はどちらかというとヨーロピアンタイプよりはアメリカンタイプが好きでした。当時、母親に「いつかはハーレー ダッビドソンのフル装備を」と夢を語った記憶があります。
40年前の高校卒業後上京するまでは給料の半分をオートバイに費やし、あと半分は先輩方に面倒見てもらうという、今では考えられない楽しい生活を送っていました。
 その間、寺内タケシの下での修業時代(寺内タケシとブルージーンズのリーダー、今の私は「おやじ」あっての私です。感謝!!)、1981年に旧ソビエトの公演に同行した時、現地の軍用オートバイ&サイドカーに魅せられました。エンジンは水平ボクサーエンジンが多かったようでBMW系だと思います。
 1984年にまた行くチャンスがあったのですが、翌年のつくば科学博覧会の仕事を寺内さんから任されていたため、同行できませんでした。
 帰国の時、横浜港に迎えに行ってみると、寺内さんは、私への土産にサイドカーを持ち帰ってくれたのです。涙が出たのを覚えています。
 義兄のオートバイとそのサイドカーの組み合わせで全塗装し、車検を取るために名古屋の工場に組み立て依頼し、一日千秋の思いで待ちました。組み上がり、仮ナンバーで横浜まで陸送。車検が通るのを楽しみにしていたのですが、日本国内では許可が出ない、という結果でした。残念でなりませんでした。それにしてもオートバイは格別です。
 オートバイに乗っているとき何故か癒されるのです。
則行 正信(株式会社ドリーム)

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