加藤 茂樹     
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 1953年秋、場所は有楽町、日劇。ステージには夢にまで見たJATP(Jazz at the Philharmonic 米国・一線のジャズ・アーティストを擁したジャム・セッション・グループ)の来日公演。ナマで見るアーティストのプレイにもり上がった他に、このステージに林立する(といっても現代のステージには及びもつかないが)マイクロフォンには新録音時代の息吹を感じて圧倒される想いであった。マイクロフォンと小生の大接近的出逢いであった。
この時のステージは開局して間のない民放(ラジオ東京〜現TBS)が収録して、当日の深夜に特番を組んでただちにオンエアするという、たいへんエキサイティングなイベントでもあった。つけ加えるならば、当日深夜のオンエアを聴いて、折しもマニアの間でのキーワードであった“HiFi”を意識させ、やっと出まわり始めた外盤LPの音にも似た迫力を感じて、小生のラジオ局入りの意思は決定的になった。
 この時使われていたマイクはRCA−77DXが主流、44BXもあったと記憶しているが、想えば本格的マルチマイク収音のハシリでもあった。ちなみに時代はまだコンデンサー・マイクや超指向性ダイナミック・マイクの一般化には程遠かった。この時のエンジニアは後にピーナッツ・ハッコーと鈴木章治の“鈴懸の径”を録音してラジオ東京にこの人ありと云われた合田信正氏(故人)であり、JATPのプロデューサー・ノーマン・グランツをして“日本の録音技術は優秀だ”と云わしめたという。
古い話になってしまったがこの時のインパクトが、只のオーディオ少年をして“音声”の仕事をなりわいにしようと決心させるところとなった......。という意味で“私とマイクロフォン”のプロローグとさせていただきたい。

その後めでたく放送局に入社、以来、現在まで“音”にかかわる仕事にたずさわるところとなるが、マイクロフォンとかかわるいくつかの出来事やエピソードをご紹介することで“私とマイクロフォン”のかかわりを述べさせていただくこととする。

“音を録るか、音楽を録るか......”
ラジオ東京に入社し、はれて調整部(当時は音声制作セクションをこう呼んだ)配属された時、部長に小生はこんなアドバイスをいただいた。
“音を録るのではなく、音楽を録れ.....”というのだ。折しもやっとコンデンサー・マイクが普及しノイマン49だのソニー37A、19Bなどが数は少なかったが現場に配備され、小生らオーディオ・マニアくずれは当然にコンデンサー・マイクを使いたがった。ところが部長がいうには、コンデンサー・マイク導入の当初、現場ミキサーがオーケストラ収音に使って、あまりの音の良さに幻惑されてバランスが二の次になるという失敗がよくあった、音の良さの前に音楽としての本来の姿を収録するように心掛けなさい......と。ちなみに部長はレコード会社の出身、リボン・マイクで育った人だったし、自身も44BXが大好きで、オーケストラも44BXのワンポイントが最も良いという信念をお持ちだったから、当然の見識ではあったかもしれない。でも当時の第1期HiFiブームの最中、コンデンサー・マイクとリボン・マイクの音のちがいは歴然(このちがいを目的別に使いわけるノウハウを皆が確立するまでには、この頃、まだ相当時間を要するところではあった)。若きエンジニアにとってノイマンの音はHiFiの象徴の如く思えてならなかった。
 小生が後々までも“音楽性”にこだわった仕事を心がけるようになるのは、この時のアドバイスに納得もし、真正面からうけとめたからだったと今にして思うところである。ちなみに、その部長は山形高靖氏(ビクター出身のエンジニア)である。

“朝(あした)に星をいただき夕べに月光を浴びて......”
  〜ハードスケジュールの中で習った録音技術〜
 入社したてで、初めからスタジオで本格音楽録音などやらしてもらえない。はじめの頃は外録、いわゆる局外での仕事。これはニュース取材、外部施設での公開録音。これらは時として生中継などというドキドキするような場面もある。公開生放送などは特に神経を使う。当時はPA業務がまだ未分化で録音に付帯するようなものであった。
マイクロフォンは77DXやソニー37Aが主流。唄や楽器のためにモニターがあるわけでなく、PAはひたすら会場に唄や、音の小さい楽器を拡大して聞かせるというもの、“拡声”という用語の似合う時。演奏者や唄い手は場内のカエリをきいて演奏を進めた。
指向性の鋭いマイクがない時代、これはよくハウリングを起こす。そして、よく云われたのは“生放送”のときハウリングを起こすとTX(送信機)がオーバーロードになって送信管がダメになる......ということ、先輩達からおどかされた。リミッターだの過電流遮断機とかがあって、本当は球がイカレることはないだろうが、一旦、保安回路が働くと復帰するまで停波ということになり、今思えばリスナーはじめ聞く人に迷惑がかかるだけでなく、監督官庁に届けを出さねばならないなど.....という影響の大きさを心配すればの話だったのだろう。
 そうした中で、しばらくして、“こども音楽コンクール”(エリア内の小学校の音楽教育の一環として声楽、楽器、合奏などの成果をラジオを通じて紹介するという教育番組〜現在もTBSラジオでひきづづき放送されている)の担当となった。
この番組は地区ごとに児童生徒が一堂に集い演奏を行い収録するというもの。会場は、学校の体育館から地方の公会堂(現在のような、整ったものではなかった)まで様々。予算もなかったのだろう。エリア内といっても遠隔地になると、早朝は真っ暗のうちに機材車に同乗して局を出発。帰りは月光さんさんという深夜に家路につく.....これが毎週、土日に実施された。しかし、この番組を担当した数年間で、音楽録音の奥の深さを知り、スタジオ以外の音響条件〜条件はよくない場合が多い〜に対応した収録というノウハウも体得できた。勿論モノーラル録音で、マイクは37Aや77DX、44BXなどを使用したように記憶している。
 大編成の合奏でも使えるマイクは限られており何でもこれで恰好にしなければならない。
 こうしたこの番組での経験は、後に多くの条件の悪い録音業務でも、あまり困ることなくそれなりの成果をあげるために、大いに役立ったのだと思っている。脱線になるが、若手後輩の中には、使いたいマイクが調達できなくて、この仕事はうまくいかないと半ば適当にしてしまう人もいるが、なんとも贅沢。取りあえず、マイクがあればブランドは何でも何とかなるし、本数が揃わなければ、最悪あるもので何とかする.....というのが小生の考え方である。何を年寄りくさいと云われればそれまでだが.....。

“A DAY WITH ART BLAKEY”1961
 小見出しの表記は、“1961年、初来日のアート・ブレーキー&ジャズメッセンジャーズ”産経ホール(現在のではなく昔のホール)ライブのCDのタイトルである。
このCDのというよりは放送素材となるこのライブの収録を小生が担当した。時代はハードバップ全盛。空前絶後のモダン・ジャズの流行期であった。有名ジャズ評論家をして“そばの出前配達が「モーニン」(アート・ブレーキーのヒット作)を口笛で吹いて通り過ぎる”と評したくらいの流行だった。今でこそピザの配達スタッフがノラ・ジョーンズを唄いながらバイクで来ても別になんでもないが、アート・ブレーキーの頃は珍しかったに違いない。
 そのアート・ブレーキーの初来日(モダンジャズのグループで来日のはしりでもある)とあって、単に音楽界だけでなく、最先端を自称する各界が沸きに沸いた。この公演の初日のステージを収録して特番を作ろうというもの。勿論ラジオ東京の企画である。その収録のエンジニアに指名されたのである。喜び勇んで引き受けるところとなったが、マイクロフォンの選定でチーム内で議論が沸騰した。
小生当然フロントにコンデンサー・マイクを2本(トランペットとサックスのために、機種は49bでも37Aでもよい)と思った。ところが、年長のスタッフは、それはダメだと云う。先ずコンデンサー・マイクはノイズが出やすいから、大切な一回かぎりのステージで失敗は許されないからリボンマイクにすべきだと.....当時はたしかにコンデンサー・マイクは不安定で、何かというとノイズに悩まされたのは事実。それでも音質には、代え難いとして、だましながら使ったのも事実。そう云われれば、それでもという自信はなかった。また、楽器ごとに一本づつではなくフロントはセンター・マイク一本でやった方がいいとも云われた。マイクの数は少ないほどトラブルは少なくなるというのが年長スタッフの考え方だった。結局フロントはエレベーター・スタンド(当時はステージに備えつけの、演奏者に合わせて上下をリモートコントロールできるこの種のスタンドがあった)に77DXをセットすることとし、ピアノ、ベースに77DXを一本づつ、ドラムスに37Aを一本、会場ノイズ(アンビエンス)にSANKEN MS-5を一本というセット。収録は勿論モノーラルである。ただ、このコンデンサー・マイク37Aも、もしトラブッたら絞ってしまう、でもドラムスだからセンターのカブリで十分いけるというわけだ。たしかに音色のことを考えなければブレーキーのドラムの音圧は、それでも大きすぎるか.....という笑い話も後になってよく交わされた。結果はどうなったのかといえば、それはまあそれなりで、マイクの機種にこだわらなくても、使えるものでよい結果を出すべく努力すれば相当なところまでやれるということを実感した。
 トランペットとサックスは音の輻射方向が違うのでどうなるかと心配したが、アンサンブルでは2人の奏者がマイクから適度にはなれて、音量バランスを絶妙にキメてくれる(当時はステージ・モニターという考え方もなく、往時の演奏家はセンター・マイク一本で2人でも3人でもやってしまうというナチュラル・バランスの術を心得ていたのだろう)。
 アンサンブルのときは2管のバランス上マイクの高さは微妙になるが、そのままではソロのときにそれぞれに少々オフになってジャズらしさに欠けるという心配もあったが、そこで活躍するのがエレベーター・スタンド(マイク)、ソロになるとスルスルと楽器のベルの位置まで上がり下がりして、演奏者もマイクに寄ってパワフルなイメージを発散する。この時のトランペットは故人になったリー・モーガン。テナー・サックスは現代ジャズシーンで中心的な活躍をしているウェイン・ショーターである。この時の録音はLP化、CD化されて今でも聴けるが、赤面の至りというところもある半面、放送屋として誇らしく思えるところもある。ちなみに前出のJATP/日劇のライブもLP化CD化されている

“東京の音”“レールマニアの音”〜フィールド録音のこと〜
 ラジオ局のモノーラル録音に飽き足らず自作のステレオ録音機で自然音だの鉄道だのを録るという道楽も50年代末頃からやり始めた。よくしたもので前出の調整部長のビクター時代の同僚プロデユーサーから頼まれたとして海外向けのLP企画“東京の音”のステレオ録音の話がとび込んできた。“局にもステレオ録音機はないから君の自作機でやってくれないか.....”と放送屋にとってレコードという結果の残る仕事にはいつも羨望の想いがあったのでまったくうれしい仕事であった。
東京のストリート・シーンから浜町芸者のお座敷、寄席の下座音楽、隅田川を行くポンポン船、はては寺院の読経、ニコライ堂の鐘の音まで、全25シーンのフィールド録音を敢行した。
 使用したマイクはSANKENのMS-2(無指向性ダイナミック、堅牢で全天候に近いもののくせのない音が特徴)、無指向性のペアマイクで録るステレオ音場をとおして、この時ステレオ録音の面白さと基礎を少しばかり体得した。
 約半年にわたる“東京の音”録音の余勢を駆ってやったのが鉄道の音のレコード“レールマニアの音”である。当時、鉄道のレコードは外国盤に刺激されて各社で盛んだった様である。こちらはシングル盤シリーズで17集まで、全国の鉄道“名場面”を収録している。
 マイクはMS-2、MS-5などの無指向性のダイナミック。録音機は取材用として唯一市販されていた“デンスケ”ことSONYのM-2、M-3、M-5(M-2のみモーター駆動、他はゼンマイで5分しかもたない)の中古をステレオ対応に改造。これで山奥の無電源地区、あるいは列車内、機関車内の走行中のシーンを録音した。
 この経験は後に生ワイド番組でサウンドスケープの生中継を実施する際、大いに役立つところとなった。

“639B再発見” 〜旧きをたずねて新しきを知る〜
 古典的なマイクこぼれ話をしているうちにもうENDINGに近くなってしまった。小生の放送局でのマイクとのかかわりは、その後音楽番組のステレオ収録、LP用音源の制作へと進むが機材の進歩、収録ノウハウの進歩はめざましく、その間小生は、AM局でステレオ番組の制作プロデユースを担当し、その番組をFM局に配信したり、音楽イベント、音楽番組全般のプロデユースなどを担当し、一方でデジタル音声放送局の立ち上げにかかわったりして、マイクロフォンとはワンクッションおいた付き合いとなるが、放送局を退社するのを機にまたレコーディングというマイクロフォンとクローズな関係を結ぶこととなった。
左 77DX、右 639B
 主としてジャズの専門レーベルのCD制作や、ジャズイベントの記録録音だったりして、最前線のマイクロフォンから、こだわりの古典マイクロフォンまで関連するマイクは多種だ。
中でもこだわりが強く、専門レーベルのプロデユーサーからも好評なのが表記の639Bである。また2001年、某セッションにゲスト出演したランディ・ブレッカーのトランペットを639Bで収録したところ、ランディ自信大変喜んでくれた。

 639Bは歴史の長い、主に映画のサウンド収録に使われたマイクロフォンで、確かにフィルム録音で聞こえるようなサウンドに似合う機種だが、50年代くらいまでは44BXなどと並んで音楽収録にも使われていたもの。昨今中低域重視型のジャズ・サウンドが好まれるようになって、このマイクの音が妙に効果的な場合がある。現役時代にはついに使いこなせなかったマイクだが、最近よく使う。
 帯域が広いわけでもなく、出力インピーダンスは低く、正規の使い方としては、変換トランスを介してコンソールに入れるのが正しい。出力レベルはトランスを入れても低目だが、この安定感のある重厚且つ力強い音はコンデンサー系では得られない音だ。
 最近付き合ったジャズ演奏家の中にはいい表現が見つからないが“くすんだ音”を好む人が少なからずいる。かって流行ったブリリアント、超メリハリでパワフルな音では表現できない陰影のある“くすんだ音”が要求される。こうした音には現代のマイクロフォンはそのままでは対応し切れない。小生の録音系は96KHz-24bit、又はDSD方式が主流だが、要求される“くすんだ音”はこうした上位フォーマットにしたとき、格別の効果が生まれるような気がする。この“くすんだ音”に象徴されるのは単なるオーディオ的いい音では音楽を表現しつくせない.....という冒頭の話と根っこは同じ.....。639Bの音が必ずしもくすんでいるわけではないが、こうした様々な問題と出逢って、録音〜マイクロフォンにかかわる表現の奥深さにあらためて想いをする日々である。

加藤 茂樹 職歴
1957年 (株)ラジオ東京(現TBS)入社 ラジオ局調整部 ラジオ番組の制作技術担当
1958 LP“東京の音”でステレオ録音担当
1959年 各種ドキュメントレコードの録音
1964年 ラジオ局制作部で番組制作
1976年 番組テーマ曲“ビューティフル サンデー/ダニエル・ブーン”のヒットでTBS社長賞。東京音楽祭イベントプロデュース担当
1980年 ラジオ局編成部/パソコン関連番組、音楽番組、メディア関連イベント開発
1990年 CS衛星デジタル音声放送の技術研究
同(株)PCMジパングへ出向、システム開発
1994年 ラジオ局事業部で、音楽ソフト通販システムの開発
1995年 TBS退社
1997年 コミュニティFM局「FM世田谷」の設立/開局
2001年 (株)プロムナード顧問/地上デジタル音声放送(デジタルラジオ)担当
他に音楽、オーディオ関連誌で執筆中
 
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