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 先日、通常総会の席上で表題のお話をさせていただく予定でしたが、時間の読み違えと枕の振り違えが重なり纏まりが悪いものとなってしまいました。話を聞いていただいた皆さんにはお詫びを申し上げなければなりません。またこの紙面を頂きましたので改めてのご挨拶とさせていただきます。
 「劇場とワイヤレスマイクロフォン」を表題としたのは、私が音響の業界で働きだした頃の劇場の電気音響設備がどのような物だったのか、それがどう変わってきたのかをお話しようと思ったからなのです。ここで示される年代は私の体験によるものです。

1)オノコロ島時代(1958年〜1963年)
 私がこの業界で働きだしたのは1958年に「効果」の下働きとして歌舞伎座に就いたの
が始めでした。当時の歌舞伎座は勿論歌舞伎の上演が主で、音響設備は場内放送を目的としたものしかありませんでした。
 この頃の商業劇場は歌舞伎座のほか音楽物の上演を中心にする東宝系の大劇場と新劇の
上演を考えた中規模の劇場、多目的な需要に応ずる公立施設などがありました。音響設備から見ると上演形態によってそれぞれ独自の設備を備え、設備の基準のようなものは特段無かったのではないかと思えます。
 一旦整理すると商業劇場は歌舞伎などの上演を主にした歌舞伎座、京都南座など、レビ
ューやミュージカルを主とする国際劇場、東京宝塚劇場、新宿コマ劇場、多目的な自治体管掌の県民会館、新劇を主とする俳優座劇場などに音響設備から見ると、ある典型を見ることが出来ます。
 全劇場に共通することは「非常用音響設備」とそれをベースにした「場内放送設備」です。云うなら一寸触れたようにこの頃は標準的な音響設備は無く、オノコロ島―混沌とした状態だったということでしょう。
 設備から見た各劇場の装備情況は東宝系の3チャンネルのテープによる音楽再生を主に
したコマ劇場、東京宝塚劇場、帝国劇場などがありました。一方で音響効果を主眼にした
のはおそらく俳優座劇場が最初ではなかったかと思います。

2)公立文化施設
 1950年代以後文化普及を目的とした市民会館やホールが盛んに作られました。
 現在では約三千を数える、演劇、映画、舞踊などあらゆる上演レパートリーに応ずることが出来、また地域の利用に開放することを目的とした多目的ホールです。それまでの施設と際立って違う点は放送の中継を目的の一つに加えた事です。それにより電気音響の計画に放送局の技術を導入したことはホールの音響機器の設備基準が大きく飛躍することになりました。
 場内放送以外の目的で「放送室」が設置されたのもこの頃からです。この放送室の目的は録音にあり、PAや効果の仕事は視野には無かったようです。
 調整卓は入力側に重点が置かれ、出力側はモノーラルもしくはステレオだったように憶えています。しかも大振りのトグルスイッチで切り替えると云う、回路が開いているとショックノイズがドカーンとくる大胆なものもありました。
 放送室は当時の最高水準といえるマイクや調整卓、テープレコーダーなどの音響機器を備え、外部の「効果」など音響担当者には使わせて貰えない場面が多くあったのは当時の「効果」の地位がどうだったのかを示す一つの例でしょう。

3)効果の踏ん張り
 この頃、効果が操作できる(させて貰える)場所は舞台の中の袖や仮花道の奥、黒御簾の上などでした。全ての機器は持ち込みで仮設とせざるを得なかったのは舞台の構造上仕方がないとは言え、操作できる場所が決まらず途方にくれたことは数知れません。
 1961年頃でしたか、ショウビズスタジオ(SBS)さんが頑張り「徳川家康」上演にあたって歌舞伎座に音響効果専用の部屋が、それも監事室の脇に作られたときは本当に嬉しかった事でした。卓はビクター製で丸フェーダー、6in-8outだったかと思います。アッテネーターを採用していなかったのは絞り込みの時のステップ飛びを嫌ったのかもしれません。

4)音楽シーンの大転換
 ホールの音響設備が大きく進歩したことに「放送」系の技術の参入が大きく関係したことは勿論ですが、録音スタジオから始まった音楽制作技術の変化を無視することは出来ません。音声がFMになったテレビが始まったことは大事件でしたが、1953年に民間放送が始まり、その数年前からLPレコードが実用化してHi-Fiが品質向上のスローガンになって家庭での音楽聴取環境は著しく向上しました。レコードがLPになれば、AM放送も『立体音楽堂』が始まり、テープレコーダーも往復4チャンネルでのステレオ音源による録音再生を可能にした機器を発売したりと、大変でした。
 やがてレコードも45/45方式のステレオを完成させるに及んで方式は一まず落ち着いたことになりましたが、さなかに少年期の終わりを迎えていた私は目くるめく思いでした。
 1958年頃、使いに出された私は内幸町に在りましたコロムビアのスタジオに行きましたが、そこでバックの音楽を演奏するミュージシャン(20人位か)と歌い手さんが同時に録音しているのに出くわしたことを憶えています。
 それから間もなく4チャンネルのステレオ(マルチ)が発売され、マルチ録音が盛んになり、それが本流になるには年月を要しませんでした。

5)音楽に対する姿勢
 音楽の鑑賞姿勢(享受姿勢)は音楽のスタイルや演奏される場所によってそれぞれ変わりますが、50年代の特徴として言えることは「ハード」の開発によって聴取姿勢を変えることが出来ること、それによって新しい音楽が生まれ、更に音楽制作の技術も変わると云う連鎖が至る所に影響を与えることになります。
1960年頃インラインのステレオ用ヘッドの製作技術が開発されて以来、マルチ録音が盛んになりました。数多くのチャンネル相互のレベル差を監視するためにバーチカルフェーダーが開発され、同時に進められたソリッドステート化の技術はやがてトータルモジュールの完成を見るに至ります。この傾向は録音スタジオに始まりましたが、放送に取り入られ、劇場に及ぶことになります。

6)録音技術の変貌とPA技術
 1966年にビートルズ公演があり、武道館で観客一万人動員と云う実績を上げたことは大きな出来事でした。それまでの劇場やホールでのPAは従来の拡声技術の延長とされていたのが一挙に音楽に特化したものとしてクローズアップされたのです。このことはライブ空間のみの出来事ではなく、前項で触れたようにレコード制作がマルチ化したことが大いに関係しています。
 1950年代の終わりごろテープによる収録に関わる技術が大幅に進歩しました。
 モノーラルに始まったテープレコーダーは2trから3tr、4tr、8trと開発が進み、1965年代には24tr/2inchのマルチトラックのテープレコーダーが実用化しました。トランスポートのデッキは当初ビデオ用のものを使ったりしましたが、トルクの大きいダイレクトドライブのキャプスタンモーターが開発され、同時にサーボ技術が大いに寄与して時間管理技術が飛躍的に進歩したのもこの頃からでした。  
 これらの録音機周辺の技術の進歩によって音楽の「精度」が上がると共にスタジオのマルチ化が進み、大箱のスタジオの殆どはマルチ取り用に改造されました。

 大衆は何時の時代でも常にどこかで“良い音”を聴いて知っていて、それを求めています。レコードやラジオ、テレビが始まる前はコンサートホールや教会で「生」の音を楽しんでいたし、ホールで“歌謡ショー”が催される時は既にレコードやラジオ、テレビで流れる「音」で良い音を知っていたことを考え合わせると「音を提供する仕事」の恐さを感じます。
PA技術は従来拡声を主目的に開発され街頭や駅、構内放送などを中心に展開してきましたが1957年頃から音楽に特化した技術として見直され始めました。
前述のビートルズ公演は一万人に及ぶ桁外れの数の聴衆に対するには不可欠の装置と技術があることを認識させ、いわば脇役だったPAが主役となった瞬間だったといえるでしょう。

7)ワイヤレスマイクの登場
 ワイヤレスマイクは1970年頃既に舞台で音声の音量不足のアシストに用いられてきましたが、ミュージカルやリサイタルの演出が多彩になるに従い可能な限り全員に持たせるようになりました。音楽の演奏音量が上がり、マルチマイクによる収音技術や調整卓周りがレコーディングミキサーの参加により格段に進みました。
 従来ワイヤレスマイクの装備は4チャンネル程度だったものが8波から12波に増え更に出力を抑えられ妙に窮屈な感じで作業していましたが、1980年代半ばには24チャンネルを使いこなしていました。と云うのも免許が与えられているのは40MHz帯の4チャンネルと50MHz帯の頭の計5チャンネルと教えられ、それ以上のチャンネルはメーカーの特別な技術によるものだと信じていた(私の不勉強)からです。
 1989年に電波法が整備され、特定ラジオマイクA型が制定されましたがその後の事情は皆さんご存知の通りです。
 ホールや劇場は常に変わり続けています。新しいものが出来たから、面白いものがあったから変わるのではなく、大衆の要望に応えて行こうとする結果なのです。夢工場として唯一無二の劇場を大切にしたいものです。                   
以上
編集部注: 6月15日に行われました通常総会セミナーの一部を掲載しました。なお来年1月号(100号)から八幡さんが関わられた業界のエピソードや、ご自身の体験談などを連載する予定です。ご期待ください。

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