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第33回

「映画の世界から放送の世界へ」

鈴木 良典


《まえがき》

 
今年の1月で満70歳を迎えました。NHKを定年退職してから10年が過ぎましたので、おぼろげな記憶をたよりに述べてみます。
 放送が始まって今年で82年を迎えましたが、その中で長寿番組の一つであります、「囲碁・将棋の時間」は54年間も続いています。対局は小規模スタジオのCT-108で行われ、収録・放送されます。
 音声のマイクアレンジは現在はどうなっているかと申しますと、ワイヤレスマイクが800MHz帯に変わってから6波を使用、予備マイクもセットし、番組作りを行っています。 昔の40MHz帯の時代から比べると雲泥の差があります。これも技術の進歩と関係者の努力があってのものです。

子供の頃の日劇の体験
 私がマイクロホンを意識したのは、戦後小学校生の頃です。実家は世田谷の砧にあり、近くには東宝、新東宝の撮影所がありました。
 当時の映画で、古川ロッパの「僕の父さん」、柳家金五楼の「向こう三軒両隣」や、今井正監督の「地下街二十四時間」などの作品が作られ、その映画にエキストラとして出演した時、映画の音というのは上から大きなマイクを吊って録るのだな、とおぼろげに記憶しております。
 小学校高学年の頃に「音の拡声」、今風に言うとPAですが、それに興味をもちました。それは有楽町の「日劇」の舞台に上がった時でした。戦後間もない頃で、日劇の「春のおどり」「秋のおどり」の公演は大変人気がありました。
 ある年の夏「笑う東京」という公演があり、当時は映画の上映のあと公演する、または映画を3回、公演を2回、というようなスケジュールだったと記憶しています。その公演の中で、某女性童謡歌手と二人で「七つの子」を歌った時でした。「音の拡声」は凄いものだなと思いました。
 スポットライトは私たち二人に当たり、広い客席は暗く、いい気持ちで歌っている時に感じたのです。
 歌い終えた時、後ろにいるおじさんとおばさんの二人が、どちらがうまかったかなどと言い合いしているシーンはドタバタで終わり、並木一路、内海突破の漫才に続き、フィナーレは日劇ダンシングチームの踊りで終わる、という内容の公演でした。

映画の世界へ
 マイクロホンを直に触ったのは、後年、新東宝撮影所に入社してからでした。なにしろ貴重な外国製マイクロホン、RCAの44BXと77Dだったので驚きとともに大変感動したのを記憶しております。映画の仕事は短い期間だったのですが、その中で印象に残っているのは、映画録音の作業に入る前のマイクテストでした。
 当時、録音課は30人から40人ほどで、録音スタッフは、録音技師、チーフ、セカンド、サード、レコーダーはセカンドが担当していました。マイクテストはスタッフ全員が集まり、RCAの44BX、77D、それに竹内マイク(後の三研マイクだったと思いますが)の合わせて10本くらいと、残っているマイクを屋外に出して竹ざおに吊り、マイクテストを行います。録音技師の好みと役者のキャラクターを考えて技師とチーフで決めていました。
 入念に1時間くらい時間をかけてマイクテストを終え、決めた番号のマイクを作品が終了するまで使います。
 また、某技師は作品が入ると、使うマイクの番号は決まっていましたので、その下につくチーフはそれを確保するために大変苦労したと思います。
 また、いろいろな作品の音付ラッシュを聴けたので、同じマイクでもそれぞれ音が違うという体験は後の仕事に大変役立ちました。

放送の世界へ (内幸町時代)
 そして、内幸町のNHKへ入局し、技術現業局ラジオ調整部へ配属になりました。そこで驚いたのはマイクが豊富にあったことです。数あるマイクの中でも、コンデンサのM49などは1,2本しかないので大変貴重でした。
 当時、ドラマミキサーと音楽ミキサーの間でマイクの奪い合いが度々あり、まして芸術祭参加番組やイタリア賞参加などの作品となると大変です。
 その時のわれわれアシスタントはコンデンサマイクを確保するのに苦労しました。マイクを確保するために、1時間前、2時間前の出勤はざらでした。それとアシスタントは、ドラマもやれば、音楽もやるというように、日替定食みたいなもので、両方のチーフとの人間関係にも気を遣わなければなりません。今から思うと懐かしい限りです。
 モノラル・ラジオドラマのもっとも古典的な収録方法は、3stを例にとってみますと、マイク配置図を書けば簡単に理解していただけると思いますが、スタジオ中央に開閉式カーテンが吊ってあり、時にはそれを利用しました。スタジオでは向かって左側がセリフ、右側に音楽が配置されるようになっています。
 調整室に近い窓ガラスのところにナレーション卓、セリフはスタンドにつけたマイクがその奥の左側に、そして効果音マイクはブームにつけて、合計3本のBベロを配置します。
右側には小編成の楽団、弦楽器奏者が5、6人、その後ろに木管奏者が2、3人、それを1本の77Dで録り、その奥にリズム楽器のPf、Dr、Gt、これも77D1本を配置し、合計5本のマイクで番組収録、あるいは放送していました。
 今から考えますとサウンドはやわらかく心に残る音でした。
 
ラジオドラマの全盛期
 やがてモノラルのラジオドラマは全盛期を迎え、「放送劇」「芸術劇場」「百分ドラマ」など、数多くの番組作りが行われ、その方法も変わってきました。
 制作過程は、本読み1日、音楽録り1日、セリフ録り1、2日、効果音1、2日、それとミックスに1、2日、約1週間かけて制作していました。
 普段ですと、作成収録にはPDとPDアシスタントの2名、効果2名。セリフ、音楽、効果音等の収録に2名ですが、上記の作品の時などは3名となり、音楽テープの再生を担当し、アシスタントはセリフのテープ出しを行います。合計7名で番組制作を行っていました。
 PDがセリフの編集をしますが、テストを終わり、セリフの間のつめやカット、PDのキューによる編集等はアシスタントが再編集します。編集は100ヶ所くらいはざらでした。PDのキューでテープ出しが合うと大変うれしく、アシスタント冥利に尽きました。
 スタジオは主に、2st、3Stで制作していましたが、副調の設備は限界にきていました。丸型アッテネータのコンソールとステレオ(設置型テープレコーダー)が2台と2連の円盤再生機1台の規模でした。
 ミックス時には常にMT(移動用モノラルテープレコーダー)を2、3台、4連ミキサーを2、3台運び、それと沢山のパッチングコードをかき集め、副調はパッチングコードの山、という感じでした。これがアナログ的ラジオドラマ制作の風景です。
 この時代はPD、脚本家、声優、作曲家は実力のある大物が多く集まり、ラジオドラマの黄金期を作り上げました。この時代にアシスタントを長い間担当したのがかえって良かったと思います。出演者、スタッフとの人間関係、先輩のミキシングのノウハウを学び、次の仕事に大いに役立ちました。

本館時代の大編成オーケストラ録音
 本館時代でどうしても語りたいことは、「とんち教室」「20の扉」「話の泉」などの大変人気のあった公開番組を収録、放送した第1stと301st(と云っていた)の思い出です。もちろんこれらの番組も担当していましたが、「アジアのメロディー」という番組が国際放送で定時番組として放送されており、その音楽録音が第1stで行われていた頃のことです。
 曲は初めて聴くメロディーやリズムが多く、中堅作曲家が力を入れて編曲し、リズム楽器がどんどん増えて大編成になり、シンフォニーを収録するときより、マイクの数が多くなることがしばしばでした。
 当時、遮音板や衝立などがないので、楽器配置に苦労しました。指揮者を中心に円形に楽器を配置し、ストリングスと木管はステージ上に、リズムとパーカッションは客席側、マイクをかき集め、録音設備を組立てて演奏を収録していました。この経験がのちに放送センターのCT-101スタジオで「世界の音楽」の番組を担当した時に大変役立ちました。
 もう一つ第1stについて述べたいのですが、クラシック番組、特にシンフォニーの音が素晴らしい響きであったことです。ここから芸術祭参加作品、イタリア賞参加作品が作られ、数多くの大賞を受賞しました。
 私が初めて収録したのは、ハチャトリアンの「ヴァイオリン協奏曲」で、無我夢中で冷や汗をかきながら恥ずかしい思いでした。そのうちに何曲かシンフォニーを収録していくうちに響きがよく、録りやすいスタジオだと感じるようになり、当時のホールや劇場で、これ以上に良い音を聴くことが出来ませんでした。このスタジオを設計された諸先輩に敬意を表します。
 名器といえば、ヴァイオリンの名器はストラディバリ、コンデンサマイクの名器はM-49、ボーカルマイクはSM-58というならば、スタジオの名器は本館第1stだと思います。このスタジオは私にとって一生涯心に残ります。今はなく、非常に残念です。
 FM放送が始まり、ステレオ番組が放送されるようになり、モノラル調整卓だったので、ステレオ番組を作る時、機材を組み合わせて録音しましたが、ここでは割愛します。

放送センター時代 (渋谷時代)
 次に放送センターの話に移ります。東京オリンピックの前後、職員は順次放送センターに移りました。まず驚いたのは、放送用の建築物としてよくまとまっていることでした。
 その時、強く印象に残ったのが、CR-509stです。このスタジオは一番広いラジオスタジオでシンフォニーやオペラなどに使い、最初見たときは感動しました。音楽スタジオとして響きがよく、会う人毎に東洋一のスタジオだとPRしたことを思いだします。
 歳月が過ぎ、スタジオの内部も変わりました。ステージとフロアを仕切るために左右から開閉式カーテンが吊られ、遮音板や低い衝立が導入されるようになりました。さらにフロアには楽器が置かれるようになり、スタジオが狭く感じられ、オーケストラの響きと音色に変化がおきました。
 当時を振り返ってみますと、オペラやシンフォニー、そして一流の作曲家が作品を発表する「現代の音楽」「芸術祭参加作品」などの番組が作られた時代であったと思います。
 この時に見聞を広めるために本場の音楽の響きを聴きに行こうと思いついたのです。
 
ヨーロッパで本場の音楽を聴く
 1974年、プラーハの音楽祭へ行きました。当時はまだ1ドルが360円の時代で、ドイツは東西に分かれていたので、西ベルリンから東ベルリンに入るルートでプラーハへ行きました。途中、ベルリンの検問所を通る時に厳しいチェックがあり、周りの建物には生々しい銃弾の跡が一面にあり、異様な風景の中を通過して音楽祭を聴きにいきました。
 プラーハは街全体が非常に美しく、その景観は一枚の絵画を見るようです。音楽祭が行われている劇場はどこも彫刻が飾られ、芸術的な建造物が音楽祭を盛り上げていました。どこの劇場にも共通することは、音の響きが非常にまとまっている、ということです。そしてどこも同じなのは、ステレオマイクのSM-2を2メートルくらいのポールに2本吊って収録していました。バッハの聖トマス教会のあるライプチッヒ、そのライプチッヒ歌劇場でも同じように吊ってあることが印象的でした。音楽祭の録音は各国に送られ、NHKでも「海外の音楽」などで放送されていました。
 帰りにドレスデンへ寄ったのですが、1945年2月13日、一夜にして爆撃で崩壊したドレスデン歌劇場、美術館などが廃墟となって生々しく残っていましたが、心が悼む思いでした。
 そしてウィーン歌劇場、ウィーン・フォルクスオパー、シャガールの絵が天井に飾ってあるパリのオペラ座などでも聴き、多くの吸収するものがありました。
 さて話をCR-509stに戻します。当時はスタジオに演奏家を呼んで盛んに番組作りを行っていました。「音楽のおくりもの」では主にオペラ作品を収録していました。
 指揮者にはニコラ・ルッチ、森 正、尾高忠明、フォルカー・レニケの方々で、オーケストラは東フィルでした。一時間のオペラ番組のスケジュールは、オーケストラの練習が1日か2日、歌手との音あわせを東フィルの練習所かリハーサル室で行い、そしてスタジオ収録となります。
 収録当日は1時間前に出勤するのはザラでした。歌手が歌いやすく、演奏者が演奏しやすいように環境空間を広くし、使用しない楽器や遮蔽板などを整理、マイクをセットして演奏者と指揮者を待ちます。
 オーケストラのメインマイクは、SM-69のいつもの番号のものを使いました。また、ソリストは何回か一緒にやっていますので、何番のマイクか決まっています。それがミキシングのコツでもあります。
 何十本かのオペラの作品を担当しましたが、その中でもニコラ・ルッチ指揮、中沢桂さんのドニゼッティ作曲「ランメルモールのルチア」の「狂乱の場」のフルートとの掛け合いは圧巻でした。
 テストの時から演奏者が高揚していて、これは良い演奏になると予測しており、本番では、中沢さんとフルートにまわりの演奏者の意識が集中していました。そのシーンが終わるとOKのサインが出る前にスタジオでは大きな拍手が起こりました。音楽芸術はすごいものだとつくづく思いました。
 また、ニコラ・ルッチ指揮でモーツアルトの「ドン・ジョバンニ」を2回にわたって放送しましたが、その収録で思い出しますのは、通常ですと順番に収録していくのですが、この時はとびとびに収録したことです。あるシーンの前後を2週間後のスタジオ収録で行いましたが、前に収録したテープを再生して音色を合わせながら録音した時は大変苦労しましたが、結果はきわめて良好でした。
 
黒い九月事件
 最後にどうしてもお伝えしたいのは、1972年、ミュンヘン・オリンピクの放送で出張した時のことです。ミュンヘンは第2次大戦で大きな打撃を受けたのですが、よくここまで復興したものだと驚きました。
 スポーツ・オリンピックとともに芸術のオリンピックとも言える内容のプログラムで、各劇場では連日演奏会が開かれておりました。
 9月5日に悲しい事件が起こりました(ミュンヘン・オリンピック事件)。パレスチナ過激派によるイスラエル選手たちの誘拐事件です。その日、プレスセンターで朝食をとっていると、二階建ての選手村の屋上に選手のユニフォームを着た数十人の兵士(だと思いますが)が下の様子をうかがっていました。そして深夜、飛行場でイスラエル選手たちと、パレスチナ人たち(ブラック・セプテンバー)が死亡した大悲劇が起こりました。
 翌日、競技は中止されましたが、午前中に競技場で追悼音楽が演奏されるというので、日本への放送を担当しました。
 ルドルフ・ケンペ指揮、ミュンヘン・フィルハーモニー、ベートーヴェンの第3シンフォニー、エロイカの第2楽章「葬送行進曲」が演奏されました。ミュンヘンの放送スタッフと一緒に仕事をしたのですが、演奏が始まると声を出して泣いていました。
 その夜、バイエルン州立歌劇場の公演の券を購入していたので聴きに行きました。ミラノ・スカラ座のスタッフで、曲目はヴェルディの「レクィエム」でした。演奏中、どこからともなくすすり泣く声がしていました。演奏が終わると拍手もなく、そして外の広場には劇場へ入れない大勢の人たちがいて、広場の左右のスピーカから流れる劇場内の音楽を聴いていました。  合掌


鈴木良典 略歴
昭和12年1月
昭和30年
昭和34年
平成9年
以後
東京生まれ
新東宝 入社
NHK 入局
NHK 定年退職
音響技術専門学校
 (現音響芸術専門学校)講師
日本映画学校 講師
日本大学芸術学部 非常勤講師
現在に至る

  
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