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第32回

「ミキサーそれぞれの音」

前田 欣一郎


《まえがき》
 原稿依頼を頂いたのは良いが元来アバウトな性格は「どうにかなるさ」と引き受けたまま、原稿用ネタ(題材)探しに明け暮れ、文章そのものにはまったく手つかず状態が続いた。と言うのは自分が携わったレコードや資料が、家の何処かには有るのだろうが、根が楽天的と言おうかルーズなせいか整理整頓がまったくなってないのである。実家と自宅の有りそうな場所をひっくり返して探し何とか資料は出てきたものの、年代や順番など詳細が定かでは無い。当時のディレクター諸氏にお会いして再確認も、お互いにこの年になるとウロ覚えで後先があやふや部分ばかりで不安だらけの執筆である。もし間違っていましたら平にご容赦願います。

《音楽とオーディオへのきっかけ》
 私の音楽に関わるきっかけは、おそらく幼児期にハモニカを手にしたことでしょう。毎日のようにハモニカをくわえてピープー、そのうちにメロディーを聴くとハモニカのドレミも判らないのに何故か演奏出来てしまうことが自分でも不思議なくらいでした。そんな訳で譜面を読むことなんかもっての外で、もっぱら耳からインプットのみでしたが、小学生時に入ったコーラス隊でボーイソプラノ担当となり、譜面が読めずに大苦労、音楽の先生に聞いたり、なりふり構わず譜面読みの勉強をしたものでした。
 組立式キットの鉱石ラジオを手にしたことがオーディオへの始まりで、管球ラジオ、スピーカーやアンプなど自作に明け暮れ、作ったシステムで音楽聴取に没頭し、学校の勉強は二の次で、学生仲間で流行りのハワイアンバンドを組みウクレレとVoを担当、フォークソングブームでギターを弾き、友人の姉が踊りのお師匠さんということで当時は珍しいテープレコーダー(テレコ)でお稽古をしておられ、そのテレコを借りて自分たちのバンドの録音をしたのが初めての録音で、秋葉原のジャンク屋で購入した安物のクリスタルマイク(圧電型)とやらを数本購入、ミキサーなどというものはもちろん無く、マイク出力端子をすべて繋いで、何回もマイク距離や位置を変えることで最良のバランスを探し、ミキシングするという実にいい加減なミキシングだったが、バンド仲間からは「マエキンの録った音は良い」と好評で、手前味噌ではあるが自分自身もその評価・評判にはまんざらではなく、ミキサーへの希望もこのあたりで芽生えたのかも・・・

《いきなり休職に》
 現在は名称が替わっているが、当時のグラモフォンレコード(その後ポリドールレコード→ユニバーサルレコードと社名変更)に入社、スーツで出社したのは社員研修の3ヶ月のみで、あとはジーパンにTシャツといラフなスタイルがアシスタントミキサーのいでたちで、録音制作作業は深夜に及び毎日が残業続きだったが、好きな音楽に携われる夢のような毎日でした。そんな忙しい仕事に追われる或る日、いきなり片眼が見えなくなった。医師の診断によると過労で「硝子体出血」とのことで約3ヶ月の休職となったが、仕事上の病気療養ということで給与は保証され、片眼が見えないだけで体は至って元気で、じっとしていられる訳はない。医師に相談の結果、過激な運動以外は何でも好きなことをやっても良いとのお墨付きで、軽めの野球や柔道、クラシックからジャズ、ポップスの生演奏鑑賞、ついでに運転免許も取得、自分を見つめ直す時間など、その後の人生にとっての「神様が下さった貴重な休暇」でした。

《アシ(足?)時代》
 かけだしミキサーのころは徒弟制風に先輩に付きりで教えて頂く、いわゆるアシと呼ばれるAE(アシスタントエンジニア)で、たまに簡易な録音を任される状況でした。少しでも先輩のレベルに近付くべく暇さえあれば会社の埃だらけのレコード庫の中で、ジャンルを問わず片っ端から聴きまくり、晴れて邦楽録音をあてがわれた時には、演奏者に失礼があってはならぬと三味線を習ったり、和楽器専用の譜面を勉強したりもしました。またミキシングの勉強と称して、まだ大ヒット歌手以前の藤川正治こと子門正人さん(「およげたいやきくん」で大ヒット)とスタジオでカラオケごっこや2人の自作曲にギターやパーカッション、Voなどカブセ録音、つまり多重録音の幼稚版で楽器の重ね録音など。ダイナミックからコンデンサーとマイクを色々替えたり、角度や距離など真剣に、いま考えると稚拙でバカバカしいことの様ですが失敗を繰り返しながらも本気でやったものです。

《ミキサー人生スタート》
 ザ・タイガースは沢田研二(Vo)加橋かつみ(Vo、G)岸部修三(B)森本太郎(G)瞳みのる(Dr)からなるグループで、大先輩に録音の勉強になるからとシングル2作目の録音を任されました。つまり勉強になるとは、収録にとてつもない大音量と、当時は一発録り2トラ録音ですから間違えたら最初から演奏するということで、時間がかかることでした。新米ミキサーの私にはうってつけで、その曲が「シーサイドバウンド」【写真-1】(作曲:すぎやまこういち)で、ところがこれが大ヒット。ジュリーこと沢田研二の端正で甘いマスクと艶のある声は一躍スターダムを駆け上がり、当時川崎にあったプレス工場が昼夜フル操業でもレコード盤生産が間に合わないというグループ・サウンズ(GS)全盛期でした。
 ここでやっと本題のマイクロフォンの話題となりますが、ザ・タイガースの収録マイク選択には、こだわりがあり、渡辺プロ担当者から「ライブ演奏と同じ音が原則」ということからVoはライブで使っているマイクと同じAKGのD-12を採用。ギター、ベース、ドラムもD-202にスタジオのコンデンサーマイクC-37を追加して収録。毎回の録音に臨む準備としてはタイガースの育ての親、すぎやまこういち氏から音のヒントとなるクラシックやポップスなどのレコードやテープを指示され、前もって聴くことでサウンドを叩き込み、また目黒のタイガース合宿所へも打ち合わせと新曲練習に立ち会い、曲のサウンドイメージを構築させられました。また数々のライブレコーディングがありましたが、東京の超高級邸宅街である田園調布にあった「田園コロシアム」でのコンサート収録は今でも心に鮮明に残っています。アンペックスの4TRとルボックス2TRによる録音で、テニスコートの中央に録音機材をセットし、収録時モニターはヘッドホン使用でした。またジャケットには手書きのマイクセット図【写真-2】が紹介されております。タイガースは多くのヒット曲を生み71年1月24日の武道館コンサートを最後に惜しまれつつ解散しました。タイガース解散以降、沢田研二さんはスパイダース、テンプターズのピックアップメンバーらとPYGを結成しましたが、まもなくヤマハポプコンのエントリー曲「君をのせて」【写真-3】でソロデビューとなりました。使用マイクロフォンは沢田研二さんの甘美な歌声に合うノイマン「M-269」でした。その後シングル3作目「あなただけでいい」を最後に、野口五郎さんの所属事務所からの要望で五郎さん担当ミキサーとなるのですが、五郎【写真-4】さんのVoの特徴は高音域まで綺麗に伸びた美声で、その高音域の繊細感再現が重要でした。最終的にノイマンのコンデンサ・マイクU-47(真空管式)に決定。このU-47は「加藤登紀子」さんのVo収録にも活躍したマイクで、太く芯があり多少ハスキーな声にも良く合い、その日の体調にもよりますがピッタリのマイクでした。アルバム「色即是空」【写真-5】の制作中のある日、何時にも増して艶があり柔らかく奥行きと芯のある、そしてハスキー感も適度で「今日は声の調子良いですね」と伝えた。後に判明したことですが、未発表で藤本敏夫氏との獄中結婚、妊娠中の収録だったのです。後に「スタッフの方に言われた時はドキッとした」(ミキサーにとは限定ではなかったが)と語っておられました。ちなみに日比谷野音での「真夏の夜のコンサート’72」コンサートを経て出産休暇に入り歌手活動休業となりました。



《印象に残っているマイク》
 「ソニーC-38B」はバッテリー駆動可能ということから、SLやスーパー・カーのブーム時に、そして飛行機の離着陸音などの収録に良く持ち出したものでした。もちろんスタジオ録音でも活躍したマイクで素直な音質は好きなマイクの一つでもあります。ただし38Bには、あらかじめ5mのケーブルが付いているのですが、これが何とも中途半端なケーブル長で、ケース収納時の煩わしさや、殆ど延長ケーブルを追加せねばならないことなどを考慮して、思い切って【写真-6】に示す通り約10cmに短く切りキヤノンコネクターを付けることで使い勝手を改善しています。
 「ノイマンSM-2」ライブの記録用録音などの依頼時に活躍したのが、一本でステレオ収録可能という「SM-2」です。これはプロアーチストのライブ記録・収録はもちろんのこと、我が娘の通うピアノ教室の発表会収録で実力を発揮。記録テープの演奏中の間違い部分やノイズを邪道かもしれないが綺麗に修正編集したところ、お母様方から大好評でした。このマイクは近接した2ユニットによるMS方式のステレオ収録用で、非常に定位感、奥行感の良いマイクです。
 「ソニーECM-50P」ドラムプレーヤーのリック・マロッタ、スティーブガッドの録音では、驚いたことに、ご自身がスネアーに仕込んだECM-50Pアウトを使用する様に指示されました。少し歪み気味の音ですが迫力ある音で、結局シュアーSM-57とミックスして収録しましたが、さすがに一流プレーヤーは自分自身の音を「自信を持って大切にしている」ということを痛感すると同時に感心しました。

《ミキサーそれぞれの音》
 担当アーチストの数回の海外録音にご一緒させて頂き、感じたこと、そして得たものですが、貸しスタジオを転々とする毎日で、当然使用するマイクも変わるが収録された音は同じなのです。つまりそのミキサー独特の音がしているのです。この時以来マイク選びには無頓着になったというか、むしろ自分自身の「物差し」を幾つも持って音録りする。つまり「音が気に入らない、思った音ではない」と言う時点で使用マイクを再検討するようになりました。このミキサーの音については日本の屈指ミキサーである東芝の行方さん、コロムビアの岡田さん、ビクターの内沼さん、それぞれの音が(極端に言えば飲み屋で呑んでいても)この音は誰の録音か判るようになってきたのもこの頃からでした。そして遙か昔のことで「もう時効」と勝手に判断して「芸名」ならぬ「裏ミキサー名」で、つまりアルバイトで「五木ひろし」【写真-7】「北島三郎」さんなど他社専属のアーチストの録音を多数担当させて頂きました。チャート誌のミキサー欄には自分だけが知る「裏ミキサー名」を密かに見るのが楽しみでした。その他CM、来日アーチストのPA、世界歌謡祭、東京音楽祭など多くの貴重な体験をさせて頂き、様々なアーチストに携わらせて頂きました。自社関連アーチストのレッド・ツェッペリン、レインボウ、レイモンド・ルフェーブル、他社アーチストのダイアナ・ロス、スティービー・ワンダー、イーグルスなど海外アーチストを多数関わらせて頂き、私自身とても勉強になったことは否めません。

《パブロレーベル》
 ノーマン・グランツにより創設されたパブロレーベルのジョー・パス、トミー・フラナガン、オスカー・ピーターソン来日時の録音はライブ【写真-8】を含め運良く担当させて頂きましたが、中でも印象に残っている収録に、オスカー・ピーターソンのピアノソロ(スタジオ録音)「テリーズチューン」(廃盤)があります。使用ピアノはオーストリアのベーゼンドルファーで、最低音を通常よりも長6度低いハ音とした完全8オクターブ黒鍵付きの97鍵盤(エクステンドベース)収録には色々なマイクをテストする意味で15本のマイクを準備セットアップしましたが結局メインとなったマイクは「U-67」と「C-414」でした。ちなみにピーターソン氏の演奏中の唸り声は魅力的で、当然のように鍵盤上部に目立たないように小型の「KM-84i」をセットしたのですが、これがピーターソン氏の目に留まり「このマイクは何のためか?」と聞かれ、まさか唸り声用ですとは答えられず、咄嗟に「Vo用です」と答えてしまったのです。そのせいだけではないでしょうが、おりしもサッチモことルイ・アームストロング没(’71)後の録音と言うこともあり、追悼の意を込めて今回のソロアルバムに「弾き語り」することになりマイクを大型のノイマン「M-49」にちゃっかり変更して「This is my Night to Dream」「A-train」のVo入り2曲が追加収録されました。ちなみにピーターソン氏のVoは声が余りにも似ていることと「互いのテリトリーを尊重して歌わない」とナットキングコールとサッチモに約束をしたという逸話は有名で、ピーターソンのVoはこの「テリーズ・チューン」(廃盤)に加えて、ナットキングコール追悼アルバム「リスペクト・トウ・ナット」(廃盤)と「ロマンス」の3枚のみです。そしてこの「This is my Night to Dream」は、マスターテープからCDに焼いて、今でもオーディオチェック用音源として使用させて頂いております。そんな訳で心から「テリーズチューン」のCD化を望んでやみません。
 またジョー・パスのジャズギター教則本の「ジャズギタークリニック」録音のエピソードとして、苦労させられたのはジョー・パス氏の軽い吃語症でした、つまりギターを弾きながらコードネームを言うのですが「G、G、Gマイナー」となる訳で、余分な「G、G」と同様の部分をすべて地道にカット編集せねばならなかったことでした。しかし今となっては楽しい想い出の一つです。ちなみにギター収録マイクは「U-67」でした。

《独立に際して》
 長年勤務させて頂いた会社から独立して新会社「サングラッド」設立に当たり、噂で聞きつけ「小林幸子」さん担当プロデューサー氏から声をかけて頂き、また「日本板硝子環境アメニティー」社と「MJ無線と実験」誌からも会社を辞めて独立するなら契約をと嬉しいお話で「渡りに船」と有難くお願いしました。録音を主にPA、音響設計、施工など、またシンセサイザーの喜多郎さんの元メンバーを所属アーチストに制作、販売、イベントなど、音に関することを何でもやる超弱小会社も赤字続きの四苦八苦ながら、皆様の暖かいご支援によりお陰様で何とか存続しております。

《音響測定用マイク》
 「MJ無線と実験」誌の「音響空間クリニック」を担当させて頂いて19年、そろそろ連載200回に成らんとしております。当初はB&K(ブリュエル)の測定用マイク使用でしたが、ACO(アコー)の測定マイク「TYPE4154N」とマイク電源TYPE 5016」一式【写真-9】を使用させて頂いております。このマイクで弦楽四重奏を収録する機会があり、半円形に並んだ四重奏の中央にセットして収録。音に誇張の無い、素直で定位感の良い音像再現は流石で、単に特性に優れた測定用マイクということだけでは無いと言うことを実感しました。また9V電池(006P)駆動という便利さから、以後、測定時だけではなくライブ録音の定番マイクとなっています。

《むすび》
 レコードやPAを聴いて「感動した、癒やされた、慰められた、嬉しかった」という感想や葉書などを頂いた時はミキサー冥利に尽き、音に関わる仕事でつくづく良かったと思いつつ生涯現役をめざしたいと考えています。マイクロフォンにまつわる話題よりも自慢話と回顧録みたいになってしまいましたが、人それぞれに歴史ありと思ってご容赦下さい。        以上


前田 欣一郎
 元ポリドールレコード(株)録音部録音課 ミキサー
邦楽からクラシック、ジャズ、ポップス、ロック、演歌と幅広いジャンルを担当。これまでに約10,000曲以上のミキシングを担当、現在も契約アーチストおよび自社アーチストの録音とPAを手がけ進行中である。
 現在 有限会社サングラッド 代表取締役
    尚美学園大学 非常勤講師

  
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