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第30回

「TVCM時代」

大野 正夫


イントロ
 94号の私とマイクロフォンの阿部次郎さんの続編を、長年携わってきましたテレビコマーシャルの録音を中心に書いてみようと思います。
 世の中が騒然としていた60年安保闘争の頃、私は銀座にあった或る広告代理店の制作部に在籍しており、ラジオの仕事からこの世界へ入りました。この会社には録音スタジオがあり、ラジオの仕事のあらゆる事をやりました。広告会社ですからもちろんCMもやり、東芝音楽工業(現在の東芝イーエムアイ)のDJの録音、ドラマの録音、また音楽番組を企画してスポンサーをみつけ、音楽録音を貸しスタジオでやるなど、多忙な毎日でした。
 音楽は好きでかなり聞いていたのですが、当初その音楽録音の基本をきちんと教えてくれる人が私のまわりにはあまりいませんでした。ミキサー講習会などがあると、会社から費用をだしてもらい、受けに行きました。
 貸しスタジオへ行くと、スタジオの助手さんがマイクをいつも同じスタイルにセットして待っています。その助手さんからもいろいろ教わりました。最初は助手さんのセットしたままで仕事をしたのですが、だんだん不満が出てきて、多少の変更をすることがあり、いつか、ルディ・ヴァン・ゲルダーのピアノの音を作ってみようと、グランドピアノのホールにダイナミックマイクを突っ込んでみました。まさにヴァン・ゲルダーの音になり、ほくそ笑みましたが、決して良い音とは思えませんでした。助手さんはまた大野さんが変なことをやっているよ、と思ったに相違ありません。この方法はPAの人たちがハウリングをきらい、やる手法だったようです。しかし、ノイマンの47とか49と組み合わせますと、重厚なダイナミックな音になり、何度か編成の小さいトリオかカルテットのときにこの手法で録音したことがあります。MPSのブルナーシュア録音のオスカー・ピーターソンのようで、ピアノに頭を突っ込んだ音だ、と嫌う人もいるでしょう。また、タムやスネアの上と下にマイクをセットして、こまかくフェーダーを動かしながら微妙なミックスを楽しんだこともあります。当時のミュージシャンはそんな実験を喜んでやらせてくれました。
 私がこの仕事に入った当時は丸型ATTで、イコライザーなどありませんから、マイキングでカバーする必要があります。角度、距離はもちろん、指向性から、フィルター、パッド挿入をマイク側でやる、という経験は非常に役立ちました。ミキシングコンソールのヘッドルームマージンを考えて余分なエネルギーは入れない、ということはミキシングの基本と今でも思っています。その上、コンプもありませんから手動コンプでミキシングしました。手動コンプというのは、ヴォーカルなどの場合、リハの時に覚えておいて手動でレベルを可変するわけです。唄に合わせながら体を動かすと自然にフェーダーも動き案外うまくいくものです。唄に乗るわけです。丸型フェーダーだから出来るのかもしれません。
 このような時代で、音楽漬けの毎日でした。東芝の仕事は毎月新譜が出るとテスト盤が大量に届き、一仕事終わるとLPを払い下げてもらい家で聞く、というパターンでした。あらゆるジャンルの音楽があり、クラシックはもちろん、ジャズ、シャンソン、アルゼンチンタンゴ、ウェスターン、ハワイアン、フォーク、ロック、民謡、歌謡曲etc、まあいろいろ聞き、これが後年の音楽録音の時、ずいぶん役に立ったのです。
 1964年、オリンピックの年、私の所属する制作部と二つのプロダクションが合体してTVCF(当時はコマーシャル・フィルムと言った)プロダクションが発足しました。
 21人の男どもがテレビコマーシャルに夢を託して知恵をしぼり、サントリー、ホンダ、旭光学、三菱自動車などの数々の名作を作りました(21人でつくったプロダクションだから、プロダクション21、後年21インコーポレーションとなります)。
 スタッフは企画、演出、撮影、制作(原則として映写もやる)、録音、タイトル、編集。総務経理は本社。美術、照明は外注です。私は音担当で、音楽制作プロダクションとオリジナル音楽を制作、録音には外の貸しスタジオを渡り歩き、音楽録音が終わると自分のスタジオでダビング作業。光学録音以外は全てやっていました。私が現役終了するまでに、おおよそ4,000本ほどの録音をしたと思います。
 自社の仕事のほかに、貸しスタジオもやっておりましたので、外部のプロダクションの仕事も引き受け、音楽から、効果音、同録、ナレーション録り、ダビング等一切合財をやり、その合間合間の東芝のDJの仕事もしばらく続きました。録音スタッフは多いときでもたった5人で、残業は月に100時間以上やったことがあります。制作の連中の中には150時間などという猛者もいました。もちろん土日返上です。発足して10年目頃には社員も40人くらいに増えました。
 安い給料でよく働いたものだと自分でも感心します。面白かったから苦にならなかったのですね。また恐いもの知らずでもあったからでしょう。
 がむしゃらに突っ走った35年間、太る暇もありませんでした。面白い体験でした。

ウチケンのこと
 私の友人でCMディレクターの内田建太郎(あだ名をウチケンといいます)というのがいて、9年前に亡くなりましたが、彼とは代理店の同期で、彼の要望で付き合った旭光学の「黒い男シリーズ」はCMの殿堂入りとなりました。単純明快なアニメは当時評判になり、私がME(音楽的効果音)を作り、大泉の東映撮影所の録音スタジオへ行ったのが彼との最初の仕事でしたが、それをきっかけにして、ブリヂストン、ゼロックス、キンチョール、旭光学(後のペンタックス)、三田工業、合同酒精、などなどやたらに沢山つくりました。多くの賞をもらいましたが、晩年はあまり活躍の場がなかったようでした。
 彼は馬鹿のひとつ覚えのように、ナレーターというと、矢島正明さん、熊倉一雄さん、内海賢二さんにほとんど決めており、音楽は八木正生さん、桜井順さん、渋谷毅さんなど。彼とは長い付き合いで、家族ぐるみの付き合いが続き、お互いに寝泊りに行ったり来たりしました。また彼の黒澤明への思い入れは相当なもので、全作品を見ており、特定のシーンやカットを即座に説明してくれるのには驚くばかりでした。
 かれの編集テクニックは抜群でいつも感心しました。あるとき、眠狂四郎のビデオを見たいからコピーしてくれと云ったら、いいよ、なにがいい?というので、炎情剣がいいね、と頼んでおいて忘れていたのですが、4、5日して連絡があり、受け取って家で見たらどうも変なので、俺の記憶とちがうけど、と言うと、バレたか!と笑い出し、彼のいたずらに引っかかったのに気づいたのです。つまり彼は2本の映画を1本にまとめて、私が気づくかどうか試したようでした。まあ、いたずらの好きな男でした。

八木さんのこと
 八木正生さんとも長い付き合いでした。八木さんのピアノトリオを録音したことがありましたが、そのテープは行方不明になり、カセットテープしか残っていません。私の八木さんとの仕事はむしろ作曲が多かったのですが、アレンジも抜群でした。八木さんの曲を録音したのは主にCM音楽で、自社の仕事、アルバイトも含め沢山の録音をしました。映画音楽は東映が多く、降旗康男、石井輝男監督の作品をかなり作曲しており、私も何本か録音させてもらいました。
 八木さんはしゃれた都会的なアレンジが得意で、その上ジャズの雰囲気を出したものが多かったようです。スポンサー名は忘れましたが、流れる音楽の中に、ハープとヴァイブの単音のユニゾンで画面のきっかけにつけた音の透明感は抜群で、録音中に身震いするほどでした。このような手法は、映画音楽の作曲から身に付けたようです。
 八木さんには、若い頃、キングレコードから出ていた「八木正生セロニアス・モンクを弾く」、という話題作がありました。彼が亡くなる2年ほど前、鎌倉の小さな店で聞いたベースとのデュオのモンクナンバーの演奏はまだ耳にのこっています。枯れた素晴らしい演奏で、ただ客が騒がしく気の毒になりました。生涯セロニアス・モンクを弾いていたかったのではないでしょうか。私は八木さんとLPを何枚か作りました。
 八木さんと録音したスタジオは、東京スタジオセンター(後の日活スタジオセンター)と麹町スタジオが多かったようです。双方の1スタは40人編成でも十分録れる大きさで、私の好きなスタジオでした。
 東京スタジオセンターでは面白いことがありました。当時のスタジオミュージシャンは大忙しで、メンバーが揃うかどうか、いつもはらはらしていました。
 リハは無事にすみ、テスト録りしていたらリズムギターがぜんぜん聞こえないので、ドラムの猪俣猛さんに、衝立の中をのぞいてもらったら、大野ちゃん寝てるよ、といわれ、みんなで大笑いしたことがあります。渡り鳥ミュージシャンは疲れきっていて気の毒になりました。

録音スタジオのこと
 どこのスタジオにも欠点はあるもので、当時の東京スタジオセンターの1スタの最大の欠点は、EMT(タイプは忘れました)の返りにハイパスフィルターを入れ忘れると大変なことになるのです。一度それを経験しました。それは、ハムが出るのであらかじめ低域をカットしておく必要があったのです。これは一時的なことだったと思いますが。当時モニターはアルテックの604(多分Eタイプ)で、低域が出にくいので、ハムに気がつかないのです。私の失敗したときは、助手さんがフィルターを入れ忘れた結果でした。大体、私は自分で入れるのですが、このときは二人とも忘れ、下の2スタで歌かぶせしてそれが分かり、EQでカットしてなんとかしましたが、これには参りました。

渋谷さんのこと
 ピアニストの渋谷毅さんは素晴らしい男で、作曲しても、ピアノを弾いても繊細な透明感のある音楽を聞かせてくれます。彼は、亡くなった、いずみたくさんのところでアレンジをよくやっていました。彼は芸大をとびだし、ジャズの世界へ入ったころからの知り合いで、よく銀座を彷徨していていました。今から40年くらい前になりますが、ある雨の降る5月頃、銀座の並木通りをゴム草履はいてずぶぬれになりながらフラフラしていたのにばったり会いましたが、眼の焦点があわず、考え事をしていたようでした。声をかけてもしばらくじっと見ているだけで、近くの喫茶店へ誘いましたらやっと落ち着いたらしく、私のタバコを黙って一本とり、例のやさしい眼をして、にやっと笑いながら話し出したのですが、多分頭の中は音楽でいっぱいだったのだろうと思います。
 渋谷さんの音楽を録音したスタジオは、テレビ朝日の501st(N朝と言っていた)が多かったようです。中くらいのスタジオで好きなスタジオでした。ここのスタジオは助手に素晴らしい人たちがいて、リラックスできました。ここで渋谷さんに紹介していただいたミュージシャンにラテンピアノの名人の松岡直也さんがいます。サルサのバンドを組む前でした。松岡さんのピアノは素晴らしい。
 渋谷さんの録音のときは、フルートはあのへんで、とやや上を指差し、ピアノはこのへんに、サックスはあのへんに、というようにかれの頭の中にある音楽を再現するのはなかなか大変でした。スタジオではときどき、遊びにホレス・シルバーを弾いていたのを覚えています。

ロケのこと1
 インドアの仕事だけでなくTVCF(TVCM)のロケーションにもよく行きました。好き嫌いを云っていられません、サラリーマンですから。猛暑の中のロケから極寒の北海道のロケまで、山陰、四国をのぞき日本中を回りました。
 40年ほど前になりましょうか、ウチケン演出のブリヂストン(ブリジストンとは書きません)のエバーライトのロケで、真夏に有馬の蓬莱峡へ行った時、ロケバスを止めて食料や飲み物を沢山買っていたとき、店のおばさんにどこへ行くのかと訊かれ、蓬莱峡です、というと、昨日あそこで二人死んだから気をつけたほうがいいよと言われた時はびっくりしました。つまり、昨日までどこかの大学生たちがキャンプしていたらしく、あまりの猛暑に倒れ、病院へ運び込まれたらしいのですが、どうやらおばさんの話には尾ひれがついていて、学生が死んだことになったらしいんですね。まあ、それにしても暑いところでした。私はプレイバック撮影の音出し。この音楽も八木さんの作曲で私が録音し、ナグラに手作りの無接点リレーを取り付け、テープに貼った銀紙でカメラ前のライトをオン・オフするわけです。ゼネから100Vをもらいガンガン音を出しました。音響担当は私ひとり。プロデューサー、制作、照明助手など、手の空いている人たちに手伝ってもらいましたが、この時は自社の仕事でしたから多少無理は利きました。ウチケンが蓬莱峡をロケ地に選んだのは、黒澤明の、隠し砦の三悪人からきています。蛇足ですがこの映画の冒頭のシーンを、ジョージ・ルーカスがスターウォーズで黒澤へのオマージュとしてロボットたち(R2D2とC3PO)の出演で再現しています。映画に詳しい方はご存知と思います。

ロケのこと2
 あるプロダクションに頼まれ某大手電器メーカーのコマーシャルで2月の北海道の標津(しべつ)の野付半島へロケに行ったときは、本当に寒かった。しかも、夜のロケでした。というのは光のメッセージの撮影だったので、夜でないと撮影できないのです。光というのは、国後とこちらの光による通信なんですね。強力なライトを15,6個並べて金属の枠に固定し、シャッターを個々のライトの前面取り付け、すべてのシャッターがシンクロするように工夫されており、それをセットして信号をおくるわけです。日本側は中標津の青年たちが中心となっており、ロシア側はわかりません。最初は一方通行の通信から、根気よく通信しづけて、返答があったわけです。これには青年団は感激したそうです。光のメッセージとして評判になりましたので記憶に有る方もおられるでしょう。そのシャッターの音はゼンハイザーの416で、現場のリーダーの声はA型ワイヤレスマイクで録音しました。料理好きの車両部が、明るいうちから時間をかけて巨大な鍋にたっぷり豚汁をつくり、寒くなるとそれを勝手に食うわけです。その旨いこと。
 翌日、インサートカットとして、夕方から国後を望遠で撮影。流氷のカット、そして流氷のぶつかる音を録音。寒い、という限界を超えて痛みを感じましたが、零下20数度の標津河口から野付半島にかけての道路はテカテカに凍りつき、危ないことおびただしい。
 札幌からロケサービスが助っ人に来ていて、ドラムカンと廃材をいっぱい運んでくれ、どんどん火を焚いて暖をとりながらの撮影でした。私は簡単なアイゼンをつけて作業。ホッカイロを背中と臍にあてがい、ついでにナグラにもカイロをあてがいました。この時の助手が素晴らしい働きをしたのを記憶しています。

 その他、いろいろ面白い話はありますがこれくらいにします。私がコマーシャルの仕事を始めて20年くらいした頃から、ビデオ仕上げが始まりました。フィルム時代は音の問題が多かったのを記憶しています。サウンドネガの問題、プリントの問題、音量の問題、いろいろなプロセスがあるためすべて満足させることは不可能に近いのですが、当時はみんなよく頑張りました。ACC((社)全日本シーエム放送連盟)からJAC((社)全日本テレビコマーシャル制作者連盟)へ音の問題をなんとかしてほしい、という要望があったのだろうと思います。70年代半ば頃でした。短期間でしたが、私はJACの技術委員会の部長をやっており、試行錯誤を繰り返して、高値ではありましたが一応音量問題に終止符をうったわけです。それまでには大変長い時間と費用がかかり、関わりのあった人たちから多大の協力をいただきました。
 現在のデジタル処理においても音量問題があると聞いています。これを解決するのは並大抵のことではないと思います。隣のCMよりうちのは音が小さいなどという被害者意識を持ったらなにも解決しません。
 前回94号は予定しておりました原稿が間に合わず、私が書きました。阿部次郎というのは架空の人物で、私が経験したことなどをちりばめて一人の男を作り上げました。同姓同名の方がおられましたら申し訳ありませんが、他意はありません。文中のMさんは私のことです。


大野 正夫
  特定ラジオマイク利用者連盟 事務局長兼レポート編集
  血液型 B型
  趣味 アンプ作り、釣り、カメラなど多趣味、のつもり
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