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第20回

マイクロホンに魅せられ、ミクサ−への道へ

淺見 啓明    



◇マイクロホンとの出会い
 私がマイクロホンの存在を初めて意識したのは昭和28年4月のことで、当時、某大学理学部物理学科3年(音響学専攻)に一応在籍していましたが、学業はほっぽりぱなしで、もっぱらチェロにうつつを抜かしており、何時、退学して楽隊の道に進もうかと迷っていた頃のことです。
 私のチェロの先生(故清水勝雄先生:元武蔵野音楽大学教授。ジュピタ−・トリオ)からNHKの劇伴でトラの仕事を仰せつかった時のことでした。                  
 番組は、中村メイ子さん独演の「お姉さんといっしょ」。この番組は、メイ子さんが7色の声を使い分けて1人7役をこなすという子供向けラジオ番組でした。
 初めて放送局の仕事を頂き、勇んで内幸町1階の第3スタジオに行くまでは良かったのですが、集まっているメンバ−を見て、まず小さくなってしまいました。
 ヴァイオリンはシャンブルのコンサ−トマスタ−畠山ヒロ子さん、フル−トは名手の誉れ高い奥 好寛さん、クラリネットは後に、指揮者に転向された平井哲三郎さん、ピアノは中野富美子さん、打楽器は、当時東フィルの野口さんという蒼々たるメンバ−で僅か6人の編成では、何時ものような誤魔化しはできません。作曲と指揮は富永三郎さんでした。
 当時のこの種の番組は、音楽先取りではなく、メイ子さんの独演と音楽、効果など、すべて一緒の一発撮りで、放送局にテ−プ録音機が導入されてまもなくの頃でしたので、各スタジオにテ−プ録音機を配備するほどの余裕はなく、録音・再生機はすべて録音室に集中配備されていました。
 録音テ−プ(Scotch-111)自体も、当時の価格として高価で、テ−プ編集する場合は上司の許可がいるといった時代でした。
 音楽のテストに入ると、まず「チェロの人、一歩前にでてください!」とト−クバックで注文が来ました。「小さくなって弾いているのが、ばれたかなァ−?」といった感じで、少し前に出てみましたが、ミクサ−の人(当時、ミクサ−という名前の職業名を知りませんでした)が、おもむろにマイクを1本持ってきて、私の前に立てるではありませんか!
 そのマイクが、バズ−カ砲みたいに凄く大きく見えたことを今でも夢に見る位です。
 後で知ったことですが、そのマイクは当時のエリ−ト“RCA−77D”でした。


 こうして、音楽テスト1回、通しテスト1回、本番1回の約1時間半を、冷や汗をかきながらなんとか無事に劇伴の仕事を済ませ、頂いた謝礼金は1,200円の1割の税金引きで1,080円也。
 縁があって2年後の昭和30年、今から50年前のことですが、NHKに入ることになった時、大学出の初任給は9,170円、その頃の楽隊のギャラは高く、大変幸せなアルバイトでした。
 当時、戦後8年目を迎えましたが、音楽家の需要が供給より勝り、今、考えると大変に厚かましい限りですが、チェロを初めて僅か4年目の私でさえ、結構アルバイトができる時代でした。

◇ ミクサ−への道へ
 その秋、やはり清水先生のトラでソプラノとピアノ・トリオという4人編成で、文部省関係の音楽教室の仕事で松本の小・中学校を廻る機会があり、そこで当時国立音大声楽科の助手をしていた「我が奥方の君」と知り合うことになりました。そうして、「音楽教室の旅」の回を重ねるうちに、二人の間には、自然と恋が芽生えることになりました。
 彼女曰く「貴方がチェロ弾きを諦め、チャンと勉強して、チャンとした会社に入ったら結婚してあげるワ!」・・・・・・当時の私には、かなり手厳しい言葉で、さあ大変なことになったと、急遽、本来の音響学の勉強に戻ることになりました。
 当時、私は卒論前の実験として各種楽器の音響分析を行っており、チェロで食えなければ弦楽器制作者にでもなるつもりでしたが、ほどなくしてNHKや民放などに通ううちにミクサ−の方々とも知り合うことができ、ミクサ−への道に生涯をかけることに決断しました。
 翌年の夏には、一ケ月間程、NHKで実習する機会があり、当時の中島博美音声調整課長から「エコ−ル−ムの音響」というレポ−ト提出を命じられました。その実験の合間にミクサ−のアシスタント業務(当時のアシスタントの主業務は、マイクセッティングと録音中のマイク直しで、後は、先輩ミクサ−の仕事を見習うジョブ・トレ−ニングでした)の機会も与えられました。
 当時、NHKの第1スタジオの裏には、会館竣工当時、パイプオルガンを設置する計画があり、そのコンクリ−トの打ちっ放しスペ−スをエコ−ル−ムとして利用していました。アシスタントは、エコ−ル−ムに吸音用の絨毯を入れたり出したりするのが日課で、エコ−ル−ムは不足していたので、深夜には、もっぱら階段のスペ−スとか、トイレなどを使用していました。
レポ−ト概要は、うっすら覚えている記憶では、
 「ミクシングにおける残響付加は大別して、2つに分類できる。
 一つは、聴感的に直接音と反射音が密接に融合しあって、両者が混然一体となって一つの音色を作り上げる効果を目的とするもの。
 次は、直接音と反射音が必ずしも直接融合しなくても、感覚的に長い余韻として残る印象を目的とする場合がある。
 弦の艶やかさを目的とする場合は、残響の長いものはむしろ不要であるが、反射音エネルギ−密度の重厚さが要求され、残響付加量は多く必要とし豊かな残響感が有効である。
(図2 aカ−ブ)
 トランペットのファンファ−レなどは、残響の長さが要求され、ドラマ番組の教会・洞窟場面等の写実・遠近・広さなどの情景描写には、残響感の要求より、むしろ残響の長短が問題になる。
(図2 cカ−ブ)

 エコ−のパタ−ンは、聴感的には対数的減衰が自然に聴こえる。」といった内容だったと思います。最後は、物理科出身をアピ−ルして「スタジオ+エコ−ル−ム」という概念を「2つの部屋の合成」という形の波動方程式で説明しようとしましたが、かなり難しい方程式になり、最終的には解けませんでしたが、中島課長は音響学の専門でいらしただけに「良くここまでやったね」とお褒めの言葉をいただいたことを昨日のことのように思い出しています。

◇NHK内幸町スタジオ
 昭和20年代、NHK内幸町には、3階に365uの第1スタジオがありましたが、このスタジオでは、オ−ケストラ・オペラ・ジャスなど大編成の音楽録音、“今週の明星”・“二十の扉”・“話の泉”など500人ほどの観衆をいれた公開番組に使っていました。
 このほか3階の112uの第2スタジオでは、邦楽とか小編成の音楽番組に使われていました。
 1階には、60〜90uの第3・第4・第5・第6の4つスタジオがあり、主にドラマ・学校放送などに使っていましたが、学校放送などは、まだ生放送をしていましたし、朝の“ラジオ体操”、“歌のおばさん”なども毎日生放送でした。
 このほか、ト−ク用の10〜30u程の第7〜第17スタジオがあり、生放送・国際放送・レコ−ド番組などに使っていました。当時、レコ−ド番組は多かったのですが早朝でも総て生でした。
 当時、NHKの主力マイクは、双指向性の東芝製A型ベロシティ−(俗称Aベロ)と東芝製の単一指向性マイクGベロがありましたが、戦後、可変指向性のRCA-77Dが輸入され、まだ、数本しかなく音楽用としてミクサ−間で取り合いをしており、朝速く出勤しマイクを確保するのもアシスタントの大きな仕事でした。
 このほか、ALTECの639Bが数本ありましたが、このマイクについては先般キングレコードの千葉さんが解説されておられるので省略しますが、昭和30年代後半のコンデンサ−・マイク全盛時代でも、その柔らかな落ち着いた音色に魅せられクラシック歌手の録音に私は愛用していました。
 コンデンサ−マイクは、ALTECの21B(無指向性)が2本ありましたが、音色は良かったのですが、真空管6AU6がときどきノイズをだすのでメインマイクとしては敬遠され、もっぱらピアノに使用されていたような覚えがあります。
 昭和29年8月、NHKの実習中、初めてNeumannのM49が2本輸入されました。
 ドイツ製の如何にも重厚なマイクの美しさに見とれ、早速Mミクサ−氏のお供をして、ヴァイオリンとピアノの2重奏録音に使うことになりました。
 ピアノ用ブ−ムにM49を付けたまでは良かったのですが、DINコネクタ−を右側にロックすることを知らなかったため、見事ヘッドは落下!
 マイクの価格を恐る恐る聞くと13万8000円の由!   あまりにも高価で、この失敗でNHKのミクサ−への夢も破れたかと意気消沈し、兎も角、このお金を造らねばと考えましたが貧乏学生にとってこの金額は高嶺の花!。
 身の回りのもので何か売るものは?と考えましたが、それと覚しきものは愛器のチェロだけ。
 この愛器は、クレモナ後期のカルロ・フレジナンド・ランドルフィ! 多少小型なチェロで、低音の重厚さには欠けますが、A線の高域の音色は素晴らしい名器でした。
 取りあえず、知り合いの楽器商に相談すると、ある女性チェリストが小型の楽器を探している由、淺見さんの楽器なら、すぐ売れますよと30万の即金で引き取ってくれました。
 翌日、これを持って、中島課長にお詫びに行くと「淺見君、一体こんな大金どうしたのかい?」と聞かれましたので、しかじか云々と報告しますと「そう!大変だったね。M49は一寸、頭が少し凹んだけど音は平気ダッタヨ! すぐ楽器屋さんに行って取り返してきなさい。」
 命びろいして、早速、楽器屋さんに行くと、ああ無情! すでに私の愛器は別人に渡っていたのでした。
 これが、日本人で初めての“Neumann M49の落下試験”の結末でした。
 後日談。それから20年位たってからのことでした。この楽器商に出会った折「淺見さん、あの楽器惜しかったね。今ならマンション位は買えたのに!」

淺見 啓明

1930年生。1955年NHKに初めてのミクサ−職として入局。初期の電子音楽・現代音楽・立体音楽堂、TVステレオ、HDTV担当、PCM録音機の推進。専門はオペラ・シンフォニ−・室内楽など。1985年オタリ技師長/オタリテック取締役、1993年退任後、日大芸術学部放送学科講師。現(社)日本音楽スタジオ会長。
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