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第16回
まずマイクロフォンの手作りからスタートした・・・
飯田 幹夫   .
 私は、ラジオ少年だった。
 杉本 哲氏、奥沢清吉氏等の記事が「ラジオと模型」「子供の科学」「無線と実験」等に掲載されたのを参考にして、ラジオや中波帯、短波帯のワイヤレスマイクを作り、遊んだ。毎晩、送信し、翌日、学校で、友達から、「聞こえた」との報告があると喜んでいた。マイクは、クリスタルイヤホーンをマイクの代替にしていた。最初に買ったマイクは、肌色のMC20型リオン製のクリスタルマイクだった。当時の秋葉原には、真空管などをりんご箱に山済みにしたジャンク屋があり、ラジオの部品に困ることがなかった。小遣いはほとんど電気部品となった。今ではラジオの部品を探すのもたいへんになったが、パソコンオヤジとなり、パソコンの部品になっただけで、変わっていないなと苦笑している。

 当時、住んでいた家の近くには、東京工業大学の黒く塗られた建物の玄関の屋根に櫛のような八木アンテナが、空に向けて置いてあった。武蔵工業大学の学長は、白い髭を生やした八木さんだった。まさか八木アンテナのお世話になるとは、考えてもいなかった。
 現在、住んでいる場所は、神奈川大学のそばで、たまに、散歩することがある。宇田新太郎氏の碑があり、「八木・宇田アンテナ」と書いてあるのを見て、学者のすごさを感じている。

 高校は、東海大学付属高等学校で、校長は、松前重義(元逓信大臣)先生で、体育の時間に柔道での受身の練習で、投げられた。また、たびたび講話の時間に、無装荷ケーブルなど、いろいろな経験等の話をしていただき、このころから電気屋になる決心をした。
 教室は、FM東海のスタジオに隣接していた。医者のような、白衣をきた人たちが出入りし、機器の調整をしていた。教室の壁に野球ボールを当て、遊んでいるとすごい剣幕で怒られた。スタジオをのぞくとパンチングメタルのマイクがあったのは覚えているが、ベロシティーマイクだったと思う。このころ、興味のあったのはラックに入った送信機だった。教室の窓からはターンスタイルのアンテナが見えた。アンテナやFMチューナーを苦労して作り、受信して喜んでいた。

 東海大学へ進学する予定だったが、周りの反対を押し切り、福島県郡山市にある日本大学工学部電気工学科へ入学することになった。
 国道四号線沿いに三菱電機製作所 郡山工場で、先輩の代わり夏休みのアルバイト。スピーカーの箱を造っているとの話だったが、電気コタツのやぐらを組み立てる作業だったので、がっかりした。それでもノルマという、仕事の厳しさを教わった。
当時は、テレビの導入時期だったので、アルバイトとしては、テレビの設置、アンテナの設置のほうが面白く、収入が多かった。
 学校の授業は、基礎的な交流理論、電磁気学と強電関連の変圧器、モーター等で、モーターの巻き線をやらされたり、材木でモーターの負荷をかけたりする毎日だった。弱電関連に飢え、先輩から紹介された電気屋さんで、アルバイトをすることもあった。ある日、山奥の家で、テレビアンテナをどこへ向けても映らない、疲れてアンテナを投げ出すと、突然映り、なんと地上高さ約1mが一番良いことがわかり、驚いた。
 アンテナの指向性、ハイトパターンなどに興味をもち、アマチュア無線の病気が再発。
 当時、SSBはまだ少なかったが、4MHz帯の水晶を集め、クリスタルフィルターを作り、送受信機の製作に熱中した。また、物理実験室に電子顕微鏡があり、コトコトと眠くなるようなコンプレッサーの音がしていた。管理していた助手と仲良くなり、安定化電源に使われていた6080を、交換するときにお願いし、武末氏の本を参考にして、OTLアンプを作ったりして、結構、楽しい時期を過ごした。

 社会人になってから、日本圧電気(株)に入社。社長は佐藤孝平氏で、ベンツに50MHz帯のアンテナがあり、ハムだった。
 クリスタルマイクを設計、製造するとは、夢にも思わなかった。クリスタルのイヤホン、マイクロホン、カートリッジ、スプリング方式のリバーブ、セラミックマイク、ダイナミックマイクロホン、エレクトレットコンデンサーマイクロホン等が主な商品だった。小さな会社だったので、なんでも経験できた。
 クリスタルエレメントの製造は、ロッシェル塩の結晶、水びたしの作業場でゴム長靴を履き、カマボコの板の大きさやA5版ほどの板にクリスタルエレメントを張り付け、所要の厚さと平衡度がでるまで、研磨した後、かみそりの刃を半分にした刃で切り出す。銀箔の電極を取り付け、容量計、絶縁計で検査してできあがりとなる。
 ゴムの硬度、アーマチュア、アルミ振動板をケースに接着、周波数特性や感度がばらつき、接着剤の量で調整したりして、苦労したが貴重な経験となった。
 上司は、北畑さん(現サンボイス社長)で、活動的な人だった。
 機械図面や庭先に小さな作業場のある金型屋やプレス屋の親父との付き合い方等を、教わった。職人とは、怖いと思いこんでいたが、話せるようになると何でも融通がきくようになった。これが、あとでおおいに役立った。

 技術部にはいろいろな人がおり、真田さんにはマイクについて教わった。
 ボイスコイルの試作は、ミシンのモーターを使った巻線機、アクリルボビンを切削し、指に接着剤をぬり、アルミクラッド巻いて、アクリルボビンを溶かす。その器用さには驚いた。世の中には、こんなに繊細で、ノギス、マイクロだけで感をたよりに細かい仕事をする人がいることが不思議だった。接着剤の使い方は、魔法使いのようであった。
 米国向けの40.68MHzのワイヤレスマイクロホンは、工場の屋根の上で電界強度の測定をした。どうしても所要の値より低いことがあり、霧吹きで水を撒いて、電界強度の値を調整、冷や汗をかき、立会い検査に合格させたこともあった。
 国内メーカー、海外で有名なマイクも設計、製造しているうちに中小企業の良いところと先が見えるような気がした。

 縁があり、ソニー(株)へ入社することになり、ワイヤレスマイクロホンの商品設計を担当することになった。
 有線マイクロホンの設計を希望していたが、最初から、ワイヤレスマイクの設計担当となった。まさか退社するまで、ワイヤレスマイクを担当するとは思わなかった。
 最初は、国内向けのリチュームタンタレートとバックエレクトレットを採用した40MHz帯だった。当時の歌番組では、AKGのD-24E型が全盛であった。それから、国内、海外向けの商品化を担当、1980年にデトロイトで、共和党大会(The '80 Vote)が開催され、放送局からトレーニングの依頼があり、一人で海外出張となった。 徹夜で試作した950MHz帯の500mW出力の送信機とダイバーシティーチューナーを持っていった。当時の測定器は、重量を越えることから工具箱を持っていくのがやっとだった。現地では、米国製の測定器で、カタログで見たことがあり、使ってみたいなと思っていた測定器が、ずらりと作業台に並んでいた。操作できるかと不安になった。ところが、触ろうとすると、担当と思われるオペレーターに、えらい剣幕で怒られる。半田付け、調整などしようと思えば、オペレーターに説明し、やってもらう。労働組合で、作業分担が決められており、触れてはいけないことが、やっと理解でき、安心した。米国は、民主主義の国だと思いこんでいたのだが、食事、休憩所の場所まで異なるのには驚いた。また、周波数割り当て、運用調整も初めて知った。3大ネットとCATV事業者が集まり、連絡無線、ワイヤレスカメラ、ワイヤレスマイク等の周波数を割り当てて運用調整を行うのは見ていて気持ちが良かった。日本では、こんなことはないだろうと気楽に聞いていた。周波数表を見ながら、割り当て、3次、5次の相互干渉等について派手な身振り手振りで議論していた。
 そして、リハーサル。スペクトラムアナライザーの画面を見て、蟻の這い出る隙間もなくキャリアーがびっしりと並び、1Wのワイヤレスマイクもあり、青くなったが無事に終わった。
 毎日、会場へ通うのはたいへんで、一人でタクシーに乗ると運転手に話かけられ、へとへとに疲れた。できるだけ、音屋さんの車に同乗させてもらい通った。これが、またカーラジオの音量のでかいこと、えらく疲れた。
 音屋さんの音量は、通常のレベルより、3から6dBは高いと思う。ある日、帰りに野原の真ん中を走っているときに、雷に出会った。この世の終わりのような稲妻は、昼間のように明るくなり、音は、ダイナミックレンジが大きく、なんでも大きいのが、米国だと思った。
 最終日に、撤収、打ち上げをしてホテルに帰り、ほっとしてテレビを見ていたら、エンドロールに、自分の名前が出たのに、感激し眠れなくなり、ビールを飲んでやっと眠れた。    
 翌朝、二日酔いぎみでチェックアウトしようとしたところ、サインだけでOKとのこと、押し問答し、お金を払わずに出発した。会社に戻り、ホテル代なしで旅費の精算をしたところ上司に怒られ、テレックスで問い合わせをさせられた。なんと、ホテルは貸切でタダと判り、やっとのことで説明できた。そして、レーガン氏が選出され、大統領となった。この年だけは、忘れられない。

 商品設計を担当した周波数は、40MHzから950MHzまでだった。送信出力は、160MHz帯50Wのラジオマイクが、最大だった。

 1982年には、EIAJ(日本機械工業会)、1986年にはBTA(放送技術開発協議会)、1988年にはRCR等の委員会へ参加することになった。
 EIAJ 小電界業務委員会ワイヤレスWGでは、池藤無線工業 池藤三郎氏、タムラ製作所 中村猛氏、松下通信工業 大口氏、TOA 中島氏、奥田氏、JVC 鍋谷氏等の凄い人達であった。私が一番若く、言いたいことも言えずえらい会議に出席することになったと思った。

 ワイヤレスマイクの使用本数、周波数等の調査が行われたが、40MHz帯の4波のみで、他の周波数についてはまったく回答がなく、がっかりした。何回も各社と話し合い、何とか使用周波数の一覧表を作成することができた。

 1986年には、BTA(放送技術開発協議会) 微小電力無線設備委員会が発足、放送業務用のワイヤレスマイクの検討を開始した。松下通信工業(株)と実験局の試作、落成検査を経験した。
 1987年には、RCR ワイヤレスマイクロホン開発部会が発足、A、B、C型の検討を開始された。
 1988年、無線設備規則及び特定無線設備の技術適合証明に関する規則の一部改正答申となり、やっと見えてきた。
 1991年3月 MKK(無線設備検査検定協会)にて、技術基準適合証明の受付がはじまった。1991年10月待ちに待ったA型ワイヤレスマイクが登場することになった。
 特定ラジオマイク利用者連盟も発足した。このあとは、ご存知の方も多いと思います。

 あっという間に、2004年4月退職、毎日が日曜日となった。
 テレビを見ていると、マイクが気になって、何処に装着されているか探してしまう。
 気になるのは、ヘッドセットのマイクロホンが、コメンテーターの鼻の下にあること。
 できたら、鼻息による吹かれが減らせることから、鼻の上にセットしてほしい。
 リポータが、ガンマイクやラベリアマイクを持って話すのは、おかしい等ぶつぶつ言いながら、テレビを楽しんでいる。

 マイクロホンが、話者の顔を、覆っていたのが、舞台のライトの間にずらりと並んだガンマイク、舞台の上に置かれたバウンダリーマイク、そしてワイヤレスと変化し、マイクが音源に近づいてきた。

 映画用、ミュージカル用、レコードスタジオ用、放送用(ラジオ、テレビ)として開発されたマイクを考えると時代の変化が判るような気がする。米国製のマイクは、映画産業向けから、放送、ミュージカル、ライブと変化していると思う。放送番組も歌番組から、ニュース、ワイドショー、バラエティー等、ワイヤレスマイクにとって追い風になり、幸運だったと思う。
 欧州製のマイクは、レコードスタジオ向けが多く、職人の手造りを思わせる雰囲気があり、贅沢な部品を採用できるのが羨ましかった。隣の作業台では、C-38B、C-800G等の有線マイクを四苦八苦しているのも見てきた。

 いよいよ、ワイヤレスマイクもデジタル化されると思う。アナログでは実現できなかった伝送品質の改善、多機能化、有線マイク相当の高品質な伝送を期待できると思う。製造者にとって、これから音声担当者に受け入れてもらえるようになるまでが、大変だと思う。
 ふと、振り返ると30年はあっと言う間で、頭を下げて言い訳して終わってしまつたような気もする。
放送局、ホールの音声担当者には、ワイヤレスマイクについてご指導いただき、ありがとうございました。また、機会がありましたら、よろしくお願いします。
                  以上

飯田 幹夫  略 歴
1965年3月 
1965年4月1日
1971年6月1日
2004年3月31日

2004年9月1日

日本大学 工学部卒業
日本圧電気株式会社 入社
ソニー株式会社 入社
ソニーサウンドコミュニケーション株式会社 退社
特定ラジオマイク利用者連盟 技術委員長

 
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