第12回
  
 宗形 勝巳
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はじめに
 私が小学生の頃、学校放送や朝礼の時、マイクを使うと必ずボーボーとスピーカから大きな音が出ていました。最初のころは気にもせずマイクというのはこういうものだと思っていたのですが、ある時、先生に、どうしてマイクは喋る前にボーボーと音が出るんでしょうか、と聞いてみましたところ、先生は丁寧に、マイクに音が入るかどうか息を吹きかけて確かめるんだよ、と教えてくれました。マイクとはどのようなものか知らない私にとっては、頷いて納得するしかありませんでしたが、その時は、まさか将来マイクロフォンと歩んで行くことになろうとは夢にも思いませんでした。

1963年 朝日録音(株)へ入社
 この会社は、当時、TVCFや短編の録音所で、最終的には16mmか35mmのフィルムになるウェストレックスの光学録音でも評判の高い会社でした。
当時、録音とは音楽録音くらいしか考えられませんでしたが、録音の中にもたくさんの職種があるのには驚いたものです。
 入社以来、毎日掃除と現像所まわり。当日録音した作品を光学録音してフィルムを夜現像所へ入れる、そして朝一番に現像していただき、そのネガフィルムをお客さんにお渡しする、毎日この繰り返しでした。この音ネガフィルムと画ネガフィルムをあわせて、完成プリントを作ります。実際にはその他に、タイトルなどのネガもありますが。
 わき道にそれましたが、入社当初は、朝一番に誰よりも先に出勤しました。先輩がスタジオに入ってしまうと仕事の様子を見ることができないので、機械を掃除しながら毎日なにか一つを確実に覚えようと頑張ったものです。


リボンマイクとの出会い
 スタジオには、少年のころの記憶とは似ても似つかない大きなマイクがスタンドに取り付けてありました。勿論触ることなど絶対にできません。ミクサー助手がマイクの前で必ず、本日は晴天なり、本日は晴天なり、とマイクテストをしており、先輩に言葉の意味を聞いてみましたところ、先輩が言うには、この言葉には子音などいろいろな音の要素が入っているので、テストには最適なんだ、とのことでした。テストでリボンマイクを吹くなどは、とんでもないことなのです。当時はRCAのベロシティマイク・77DXやWE(ウェスターンエレクトリック)の639B(通称 鉄仮面)など今ではあまりお目にかかれないマイクばかりでした。
 最初の仕事は映写の見習いで、当時はまだシネコーダー(16mmや35mmのフィルムに磁気コーティングしたものに録音する)がなく、画と音のロールフィルム(画を編集したものと光学録音されたポジフィルムを編集したもの)を二台の映写機にかけて同時スタートし、音のつなぎ目からノイズが出ればそこにマジックインキなどを塗る、そうすることでノイズが小さくなる、こうした作業もシネコーダーに変わってなくなりました。
 時代の進歩とともに私としては、録音の初歩から光学録音までかけがえのない経験をさせていただいたと思います。
 こうして多くの録音技術者は、同期・スピード偏差・音質・音量などいろいろなことに挑戦しながら模索し研究してきたのです。そうした過去の苦労が基本となって現在があるのです。

同録(同時録音)
  さて、私は、映写から録音助手になり同時録音で出張するようになりました。録音技師は自分専用のヘッドフォンしか持ちません。だから私は重い東通工(現在のソニー)のテープレコーダー・KP-3を持つ。これがメカとミクサーが別ケースで大変な重量であり、ほかにコード類が入ったバッグを首にかけての荷物運びでした。
 同時録音のマイクは前述のWE・639BかRCA・77DXしかなく、感度が低いマイクのために唾を飲み込む音まで収録されミクサーに怒鳴られましたが、諸先輩はもっと重いRCA・KU-3Aなどで同時録音していたのです。
 その後、会社に画期的なマイクロフォンが入ってきました。ソニー・C-37Aで真空管式のマイクです。感度も良く重量も軽く大変な驚きでした。会社も少しずつですが、コンデンサーやダイナミックマイクを買い揃えるようになりました。

苦労した同録
 東海道線の三島駅ホームで同時録音で収録する新幹線のTVCFの時です。タレントは野球選手の有名なピッチャーを起用。そしてタレントさんのバックを新幹線が通過中にセリフを録音する、という段取り。レンタルのナグラを初めて使い、マイクはダイナミックマイクのAKG・D-202にすることにして、あらかじめ会社でチェック済み。
 当日早朝、現場でセッティングしましたが、盛大なハムでビックリ。誘導ノイズです。
 最初はどこからかわからず、ナグラをかついで一緒に歩いてみるとノイズが変わる、ホームの床下からの誘導とわかりました。現在ならワイヤレスマイクを使うことでマイクコードからの誘導に悩まされることもなく録音出来たと思いますが、当時としてはそれも出来ません。
 結果としては、ハム入りで収録せざるを得ず、タレントさんの声が大きいので少しは助かりましたが、当時はCMの音量戦争時代でもあり、光学録音レベルを上げたのでチェックの時は冷や汗ものでした。広告代理店も担当者も気にして、テープをある役所に頼んで音声分析器にかけてノイズ軽減を図ろうとしましたがうまくいかず、バックのノイズは雰囲気音であるとして納めました。今ならワイヤレスマイクと超指向性マイクを使い、どちらか良い方を選ぶか、ミックスしたりしてどうにでもなりますが、大変な失敗作でした。
 現場に入るとなにが起こるかわかりません。すべての予備機を持つことことなど出来ません。常に状況判断し応急処置などが出来る心構えと技術が必要でしょう。

1973年アオイスタジオに入社
 アオイスタジオは業界では最大手です。会社には一級ミクサーと呼ばれる技師さんが大勢おり、活気にあふれていました。入社して、前の会社との違いがあまりにも多く、最初は戸惑いました。
 当時はTVCF全盛時代で、同録やスタジオを飛び回る毎日でした。
 大組織の中で、技術的なことは勿論ですが人間関係など得るものがありました。この業界は会社が大きいとか小さいとかは別問題で、極端に言うと個人商店のようなものであり、自分を会社が必要とすればいいのです。それにはお客さんから自分に声がかからかければなりません。幸いに仕事が途切れることなく働くことができ、大変幸せに勤めることができました。

1979年、新橋の東亜映像録音叶ン立に参加
 前の会社には機材も豊富にあり何不自由することなく仕事ができましたが、今度は自分達ですべて工面しなければならず大変でした。
 業界はフィルムからビデオへの移行時期に入っており、当社としては資金の問題で、1インチVTRと2インチ16chマルチでMAを始めたのです。

1992年、赤坂に移転
  13年後、縁あって赤坂の繁華な一ツ木通りへ越しました。
 そこに新たに作ったスタジオは、多少天井が低いですがお客さんの評判もまずまずでした。アナブースなどはナレーターの意見も入れて、絶対にミクサーの前方には造らないように、と念を入れられたほどです。
 私もスタジオでナレーションを収録する時など、必ずマイクのポジションやナレーターの姿勢など見ますが、ナレーター自身、後ろから見られることは気になりがちで、とちらなくてもいいところで、緊張のあまりとちってしまう人もいます。本番前トークバックを使う時などは、静かにやさしく話してあげるなどの気配りが必要でしょう。
 やがてこの業界にMAと音効という名称が少しずつ浸透してき、作業のやり方も様変わりしてきました。
 VPの仕事で音効さんが音を付け終わり帰ろうとする時など、ミクサーが「これからミッ
クスですから何があるか分かりませんので、最後まで立ち会ってくださいよ」とお願いしますが、音効屋さんは次が入っているので、失礼します、と帰ってしまうことが多いようです。
 ある番組を外部ミクサーで仕上げる時、アシスタントにはミクサークラスの技術員がついているのに、そのミクサーはナレーション収録が始まっても、マイクの角度やポジションなど気にする様子もなく、またアシスタントにはなんの指示や相談もなく、どんどん作業を進めていく、というようなケースがままあります。
そして音効さんが加わり、「フェーダーは上げておいてください」と指示があり、ミクサーは横一列にフェーダーをそろえる。スピーカから程遠いところで音効さんはミクシングしているのです。 
以前VPの仕事の時、ミクシング中になにかいつもと感じが違うなと思い、音効さんの手をみたら音量調整しているではありませんか。「音量調整はミクサーの仕事ですからボリュームは動かさないでください」と注意しましたが、音効さんはきっと不愉快な思いをしたのではないでしょうか。
 また、私たちの年代と、現在第一線で活躍している若い方々との、ミクシングに対する考え方にギャップがあるのではないでしょうか。
 録音の仕事としては、劇場映画、テレビ映画、ラジオ、テレビ、コマーシャル、レコードなどがあり、音のみのもの、また映像をともなったものなども、私はミクシングの基本としては同じだと思います。
 音の仕上げを考えますと、ミクサー1人では当然できません。プロデューサー、ディレクター、音楽、効果といろいろな制作スタッフでチームを組んで進める共同作業です。そしてミクサーは音に関する全責任を負うのです。ディレクターの意図をどのように音で表現するか、そのためには使用機器類を熟知し、適材適所で使用する、ということで応えていかなくてはなりません。ミクシングにはミクサーの主張が当然出てまいりますが、最終結論を出すのはディレクターです。
 外国の第一線級のミクサーは、かなり長い経験を積んだ人たちがいますが、日本では組織の中で動いていると、一人前になったころには他の部署へ移動で現場を離れるケースがあり残念です。
 後半は説教のようになりましたが、一線で活躍中のみなさま、音の責任者として頑張っていただきたいと思います。
宗形 勝巳
  東亜映像録音株式会社 代表取締役
1943年10月11日 福島県生まれ
1963年 8月   朝日録音株式会社 入社
1973年10月    アオイスタジオ株式会社
1979年10月    東亜映像録音株式会社 設立 現在にいたる
 
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