吾妻 光良     
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<優勝だよ優勝>

 秋葉原の真空管屋の息子として育ち、子供の頃から真空管を割ったりスピーカーに穴を開けたりテレコを歪ませたりして遊んでいたので、大学5年になって就職しようか、という時も、何となく音響関係の仕事に就けたらいいな、と思っていた時に日本テレビの実習があるよ、と教授に言われ79年の秋,一週間の現場実習に参加した。
 当時はTVもステレオ化間もない頃であり、スタジオ設備も昭和初期の事務機の様な灰色をした真四角の卓の横にちょっとだけきらびやかな中型ミキサーを仮設して無理矢理ステレオ番組を制作していた様な頃で、フロアのバンドにセットされていたマイクもノイマンのU-47やM-269、RCAのBK-5B、といった様なオールドマイクが、今だったら茶髪ピアスで片手にDAWをインストールしたPCを持った若人がヨダレをたらしながら寄ってきそうなヴィンテージ物のマイクが並んでいた。この実習の時に、先生としてついて頂いたSさんという先輩が管楽器のマイクをダダダッと近場のマルチBOXに差し,電源ユニットの方はバンドセットの遥か下手にパラで出ているマルチにつなぐのを見た時に驚愕したのを、昨日の事の様に思い出す。「ええっ?電源ってマイクと卓との間につながなくてもいいんですか?」「そりゃお前、電源がかかればいいんだよ。」「はぁー、こういうつなぎ方があったのか・・こりゃ楽勝だあ」「お前なあ、そりゃ楽勝どころじゃないよ、優勝だよ、優勝」そうか、優勝か、そりゃいいな,と思い、家にあったビール券をつけ届たりして何とかこの業界に入ったのが、23年程前の事になる。

<動くな! そのままっ!>
 当時のTV現場のワイヤレス・マイクといえば長く不評をかこっていた40MHzのVHF帯からようやく、だいぶ使えるという400MHzUHF帯にシフトし始めた頃であった。V帯の使い勝手をご存知ない読者の方々も多いと思うが、当社の生田スタジオで使っていた物などは1U筐体の右側に受信周波数を微調する小型のバーニヤ・ダイヤルがついており、受かりが悪くなってくるとチーフから追いかけろ!と指令が飛んできてこのダイヤルを回していくのだが、これがなかなかに慣性の重いチューナーで、やばいっ!周波数を上げなきゃ、と懸命に回していけどもなかなか変わらず、ようやく変わり始めたと思ったらもうその勢いは止める事ができず、まずい!このままでは完全に離調する!と今度は逆に周波数を下げていくのだが、間に合わずにバサッと落ちて、あああ、と嘆く間もなく今度は規定周波数より遥か下まで行き再び離調する、というかなり高度な人間PLL技術が要求されるシビれる機械だった。そこへいくと新しい400MHz帯では細かい調整ポイントもなく、ただチャネルを合わせればOK!
 「あのー、今度の24時間TVなんですけど、僕は、何やればいいんでしょう?」「あ、吾妻の担当?うーん、そうだな・・・、よし、お前は『電波マン』だ。」「え?『電波マン』ですか?」「うん、いいか、メイン会場は武道館だな。そこにメインのMCが二人いる。その二人は当然ワイヤレスなわけだ。ま、大体ワイヤレスっていうのはよ、特に新型は50mやそこら平気で飛ぶからアンテナも固定でいいんだけどさ、生放送となると何が起こるか判らないから、お前はアンテナと受信機を持って動ける様にしてほしいんだ。」参考として写真に掲げたのが電波マン、及び連絡マン、ケーブルアシストの3名である。で、机上の論議ではこの3人がステージ袖にボーッと立っているだけで良かった筈なのに何故か、この業界にありがちな様に本番に入った途端にやたらと受信状態が悪くなった。受かりが悪いから前に出ろ、と指令を受けてどんどん前に行くのだが,気がつくとメインのMC二人まであと2m,の様な立ち位置で,私の直後についているカメラ・アシスタントのベテランのHさんから『ガラ電』と呼ばれていた連絡機経由の指令が飛んでくる。
 「下がれっ!戻れっ!見切れてるって!ダメだ!落ちた!前に行けっ!もっと前! あ、バカバカバカっ!見切れてるよ、戻れっ!じゃ背伸びしろ!あ、OKだって!動くな!そのままっ!」
 さながら、白鳥の湖のプリマドンナの様な姿勢で固まったまま受信を続ける。旧400MHz帯しかもシングル受信、といった日々は大体がこんな様子だった様に記憶している。

<いつもこうですから>
 83年に当時、「東洋一のスタジオ」というキッチュなコピーとともに更新された日本テレビGスタジオの64マイク入力、18ライン入力、38出力バスという規模は、今でこそどうというものでもないかも知れないが、当時としては最新鋭、にも関わらず、常設のワイヤレス・マイクはたったの6波であった。というか,当時、普通の番組をこなすには、6波もあればまずまずだったのである。
 電波マンの頃から3年以上が経過してみると、我々にはダイバシティという強い味方も加わった。スタジオの端にアンテナを立てておけば、余程のことが無い限り、楽勝、おっと優勝、で受かっていたのだが、そこに新たな敵がはびこり始めた。それは電飾だ。微弱な音声信号は、あざとくチョッピングされた電力ラインによって瞬く間にノイズまみれとなる。有線系であれば、ケーブルの引き回しを変えたり、出先にアンプをかましたり、嫌がるミュージシャンの手首にアース線を巻きつけたり、等の手法で軽減できていたノイズも、電波にして飛ばした途端にお手上げである。受信位置を変えたり、アンテナの高さを変えたりしてもほとんど何の効果もない。お願いですから曲が始まってから点灯してください、だとか、ここに立っている間だけでも消しておいて頂けませんでしょうかお代官さま、と頼み込むぐらいが関の山である。
 そんなある日、スタジオを覆わんばかりの青いネオン管に飾られた歌セットがそびえ立ち、ああ、これで今日も最悪だぁ、とマイクチェックなどにいそしんでいると、どうも音声以外のセクションがやけに騒がしい。どうやらネオンの色信号がカメラのシンク信号をつついて画がムチャクチャに乱れているという。今はお亡くなりになった先輩のTD/スイッチャーの方が、目を見開いて音声ブースに走りこんできた。
「ダメだ! 映像がつつかれて無茶苦茶だ!吾妻、音声の方はどうだっ!?」「あ、俺達はいつもこうですから。」一瞬だけ溜飲が下がったのを覚えている。

<中華MIX>      
 ちょっとワイヤレスの話からは外れるが、大体私が業務的に青春を過ごした80年代というのは、ショート・リヴァーブとゲートの時代、と言いきってしまっても過言ではない。フィル・コリンズやヒュー・パジャムといったアーティスト/プロデューサーが録音物の新機軸を次々と世に出していた頃で、当然の様にテレビに出演する歌手も手前どもの様な音響担当もこぞって当時流行のそうした音を何とかして出したい、と思っていた様な頃であった。それこそ最初の頃は一緒についてくれた先輩に頼んで、PA卓の余りバスからカメラ倉庫に一個スピーカーを出してもらって、そこからスネアだけ出してその響きをマイクで拾う、という様な事から始めてみたが、思った様な効果が出ず、ある日、当時としてはまだ新鋭機器だったEMT-250というデジタル・リヴァーブのタイムをこれ以上は短くできません、という0.6s、ないしは0.8sに設定してスネアの生音に足すと、おや、これはどうした事でしょう、これこそ私が求めていたサウンドではないですか、という事に気がつき、それ以降寝ても覚めてもショート・リヴァーブ漬けになってしまった。ところが人間というのは、同じ刺激にさらされていると次第に物足らなくなってくるもので、当初は単純にダァッ、という響きを加えていただけなのにハイのエッヂが足りない、とEQでハイ上げをする様になってダシュッ、という音に、すると今度はローの不足に気付きグイッと125あたりも上げてドシュッ、という音に、何か倍音が足らないな、と入力を10dBほど高めに加えてデジャッ、という音に、どうも伸び方と切れ際が気に食わない、とゲートで切ったピンクノイズを足してそれもドンシャリにしてリヴァーブに送ってデシジャーッ、という音に、の様なことをほぼ毎週の放送で試していた。
 今から5〜6年前ぐらいに職場の先輩/後輩達と海の民宿に遊びに行って、当時のOA同録を飲みながら見ていた時のこと。
 「うーん・・・・、これ誰が録ったやつですか?」「あ、これ俺おれ、俺。」「なんか、凄いですね、このスネアの音。」「う、うん。まあ当時流行ってたからな。」「それにしても凄くないすか?ジャーッ!ジャーッ!ってずっと鳴ってますよ。」「しかも、何よりもこのスネアの音がでかいし。何か炒め物の音みたいだよな。」「中華屋じゃあないんだから。」
 当時は、一生懸命になって取り組んでおり、歌手の事務所も一緒に盛り上がっていたものだが、こうして十年以上経ってみると中華屋になってしまう。当事者として渦中に巻き込まれていると色々な事が見えないのだなぁ、バブルと同じだなぁ、とつくづく思う。

<20世紀最大の発明>
 まあそんな状態の中、着実に番組内で使用するWLの数も増加していき、6波で足りる事などまれになり、8波〜10波〜12波と増えて行くことになるがそれでも足りない。
 当時は今のBタイプ、もしくは商品によってはCタイプの様なカテゴリーに属する200MHzという商品が出ており、S社からこの廉価版の様なものが発売される事になった。当時、職場で音声関係の設備〜メンテ担当をされていたMさんのところに簡単なメモ書き1枚を携えて陳情に赴いた。
 「Mさん、ぜんぜんWLが足りないんです。」「本当に足りない?制作と相談なさい。」「いや、そんなにWLは出せないっていうと勉強が足りないって言われるんです。でも勉強が足りないんじゃなくてWLが足りないんですよ!」「でも、おいそれと買えるもんじゃあない。」「そこで!今度出る200MHz!これ買いましょう!これなら優勝で経費扱いですよ!」「そんな民生機を放送に使うっていうのか?」「大丈夫ですよ。番組中一回しか喋らない人もいるんですから。」「じゃあ、その時死んでたらどうするんだ。」
 陳情は玉砕した。ところでこうした多数のマイクでトーク番組を録ったりしていると、何が困るか、というと、一体このうちのどれがノイズを出しているのかが、メーターや検聴では瞬時に判らない、という点である。散発的なノイズで発見に手間取ったり、仮に発見できたとしても、それがメインMCだとすると下げるに下げられない、という悲劇がある。
 当時、防衛策として採用されたのがWL番付、という物で、番組内でノイズにやられたWLの経緯を記録していき(当時の新人F君の仕事であった)東の横綱は47ch、前頭43ch、という様に毎月番付を更新していって成績が良いchを重要なところに当てていくのである。ところがその後、試作機としてコンパンダが1波投入されるやいなや、まさにそのchは永世横綱、といった風情で番付上に輝いた。前出の民宿で飲んでいた時の話題でもあったが、現場音声担当者として20世紀後半の音声技術を振り返った時、最大に恩恵を受けた発明を挙げよ、と問われたら我々の場合はプロ・ツールズでもなく、ISDNコーデックでもなく、ライン・アレイSPでもなく、コンパンダWLを最大の発明として推挙するだろう、と意見が一致した。ちなみに第二位に輝いたのは、デジタル電話ハイブリッド。

WLチャンネル・シミュレーション
VBで組んだ「WLスイーパー」

<800MHzの登場、そしてこれから>
 電波法改正を受け、今まで使っていた400MHzを捨てる、という時が、丁度職場の人事
異動の時と重なったが、歓送迎会の席上には送り送られる人達と同様、白い布をかけたテ
ーブルの上に、長いことお疲れ様でした、といった意味を込めて400MHzのシステムが陳列されていた。いろいろと文句を言ってきたが、お世話になったのは間違いない。そして世の中は800MHz時代に突入するわけだが、番組は日々作らねばならず、ちゃんと理論武装ができる前に、とりあえず現場に投入して使い始めた。ところが400MHz時代には無かった、グループ、という概念が良く判らず、最初に購入した2セットが、1グループと2グループの固定運用だったのだが、どうもこの2つを同時に使うと良くない事が起こる。今考えれば当たり前の話なのだが、機材庫のWL置場の上には大きく「混ぜるな!キケン!」と薬品の注意書きの様な紙が貼り出されていた。
 その後、S社の方にスプリアスの出方を講義して頂き、93年〜94年ごろ報道stの泊まり勤務の時にシコシコとVisual Basicで組んだのが、写真の「WLスイーパー」なるソフトである。現在の特ラ連HPで提供されているチャネルプランのソフトに比べると遥かに低機能ではあるが、ゲーム感覚で手軽に遊べる(?)利点がある。こうしたツールを使って、年末など番組が多発する時には、うまく使用周波数を調整して、スタジオ全体で60chを超えるWLを同時運用する時もあるが、特に問題もなく安定して送受信できるのは、入社当時から考えると隔世の感がある。今後はWLも、更なる高度化の方向に向かうと思うが、現在現場の最前線で仕事をしている音声担当者が年齢を重ね、新世代のWLも更新時期を迎え、という時に、長い事お疲れ様でした!と声をかけたくなる様な、ともに番組を作っていく仲間として働ける様な、そんな機材に発展していってくれる事を願うばかりである。

吾妻光良 職歴
1956年2月
29日
東京生れ
1980年4月 日本テレビ放送網入社 
制作技術・音声担当に配属途中1年程、
報道スタジオ配属
1999年7月 技術局テクニカルマネージャー
2002年7月 株式会社NTV映像センター出向
制作技術局制作技術センター音声部長 
現在に至る
 
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