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八幡 泰彦


このページを戴きながら2年にわたって私の“揺籃期”のこと、お話してきました。
 「私の来た路」がテーマだったのに「私がこの道に来る」前の話になってしまったその訳は、お話を続けさせて戴く度毎に“混乱期”と云った方がふさわしいこの期間に、自分にとっては貴重な体験を重ねたことになったのだということに今頃になって思いが至り、斯くなる仕儀になってしまったことが原因のようです。

藤城清治先生のこと、木馬座のことをさらに一寸。
 公演の本番日に舞台裏はそれこそ阿鼻叫喚にして和気藹々と云う、活気溢れる状態でした。その“裏”を支えている裏方は殆どが未来子供劇場のメンバーでした。未来子供劇場というのは当時盛んだった学校周りを中心とした劇団で、手堅いスタッフをそろえていました。その集団は「スタッフセンター」と云っていましたが、役者もしっかりしたベテラン揃いでした。中でも新井さんという人は千変万化といえる声を出せ、演技もしっかりした気さくな人でした。一世を風靡した“ケロヨン”は彼のキャラクター作りによる所が多分にあったと言えるでしょう。この木馬座の舞台監督(一谷さん:舞芸出身)と出会えて飲んだことが大きな切っ掛けになったことには感謝しています。藤城先生は今もお元気にニコニコと創作活動をしていらっしゃいますが、当時の私は現場の忙しさにかまけて、あまり直接お会いすることはありませんでしたがそれが今となっては返って良い結果になったかと思います。いつのことでしたか、舞台で木の葉っぱを拾い、見るほどに感心したことがありました。なんとまあ先生のオリジナリティが一枚の葉っぱの隅々にまで行き渡っていることか。これは尊敬すべきだと思いました。やがて木馬座は倒産します。しかし木馬座で拡がった人の輪はその後も広がり続けました。笈田敏夫さんはことに思い出します。
 とつぜんですが、そこで教訓です:飲むなら丁寧に、人の言葉は良く聴く、しかし悪口は聞き流す。

木馬座で忙しかった頃(1967年)のことでしたが、園田先生から協同広告に行ってPAの仕事のうちあわせをしてくれないかと言われました。これがヤマハとの出会いになるとは思いも掛けないことでした。ヤマハが紀伊半島の突端に音楽施設を作ったのでそのオープンイベントを手伝って欲しいというのです。野外劇場でコンサート、録音棟での多重録音の実演、相当に大きな仕事でした。
 とりあえず現場を見なくては話にならないのでその合歓の里に出掛けました。着いて見るとブルドーザは至る所で作業をしているし、録音棟も野外劇場も未完成だし外観のみで話にならない。そのうち技術部の設計担当者が二人ばかり来たので話をしたらPAの事や録音の事は全く領域外だと云う事が判りました。しかし二人とも全くフランクな態度で、すぐに打ち解けました。話の中で度々「主任が」とか「主任の意見では」と云う言葉が出てくるので、その主任さんに会うことになりました。
 その主任さんに会うことが次のステップアップにつながることになるとは思ってもいませんでした。
 主任さんは山口さんと云いました。背の高い神経質に違いない風貌の人でした。東北大学を出てヤマハに入社した技術知識の豊富な、今までの人生で出逢った事がないタイプの人でした。自身の専門の分野の話になると口を挟まず、一見感心して聞きいる、そんな人でした。「あなた哲学に興味あるでしょう。私はシュストフに、彼の『悲劇の哲学』に傾倒しています。」文学部を出たならば多かれ少なかれ哲学に深入りした経験を持っている筈だと云うのが彼の意見で、これには面喰いました。まるで外国で道を訊かれるようなもので、どう答えたら良いのか解らない。答えに窮していると話題を変えてくる。しかしまた攻めてくる。そんな人でしたので、凄く疲れました。
 いずれにしても私たちのグループが気に入ったらしくその後25年以上のお付き合いが続きます。

大企業の底力はすごいものだと云う事が山口さんとの付き合いで解って来ました。やがてヤマハは武道館を借り切って「世界歌謡祭」を主催します。
 スピーカーも単体作りだけではなくエンクロージャーごと作ってしまう。歌謡祭が終わるとすぐ次のシステムの設計に入る。入るといっても半端じゃない。設計に当たる人数は末端まで入れると50人は下らないに違いない。予算はあったかも解らないがこちらから見る限り、とにかく裕かでした。こちらとしてもあらゆることが勉強になる。向上心のベクトルが同じ方向に向いている。私はこの環境や雰囲気を育てることに専念することにしました。学問レベルを身に着けるより私の能力はそのことに向いている。そう思ったのはこの仕事に決めて初めての自覚でしたが、それもありだろうと思いました。

それと並行する形で「乃村工芸社」とのお付き合いも始まりました。北海道での博覧会のモニュメントの運行設計を作って欲しいという依頼です。「モニュメントの運行」、聞き慣れない言葉でしたが、要するにキューシートを作ることで解決しました。基本設計に当たるのは「小南さん」と云う人でした。これも背の高い人でした。何事に出会っても先ず素直に感心する人でした。

乃村工芸社の皆さんとは小南さんを通して知り合いました。
 詳しい打ち合わせを、と云うことになり会社を尋ねることになって芝浦にお伺いをしました。待合のコーナーは玄関ロビーで受け付けのお嬢さんは綺麗だし、木馬座とは違った「芋粥」気分でした。打ち合わせはなんと云う事もなくおわり、小南さんと部下の人と近所の居酒屋に行きました。酔うほどに気勢が上がり、そのうち二人とも大学が同窓である事や、小南さんが馬術部で一緒だったデカイのが私の高校の同窓らしいことなどがゴチャゴチャになって盛り上がりました。
 乃村工芸社はディスプレイ専門の会社で国内ではトップクラスの成績を挙げている会社だそうです。
 2年後の大阪での万博を控えて会社はオオワラワの最中でした。私たちの仕事は「国連館」のマルチスライドによるディスプレイの操作システムの設計と総合的な運営管理でした。
 現場はまるで工事現場(当然のことだったのですが)のようでした。現場事務所はプレハブで工事担当の人も、デザイナーも見分けの付けようもなかった。デザイナーの斉藤さん(この方ともその後40年を超えるお付き合いになることになります)が図面を出して色々説明をしてくれました。規模も予算もすべて切り詰めたものでしたが、万博でのステイタスは高いものだという説明も受けました。確かにその通りで場所は一等地、人通りも景観も素晴らしい所にありました。ただ地下の人工池の下で、その上の池ではイサムノグチの噴水のモニュメントが人々の憩いとなるべく始動運転に入っていました。
 館内は無人で運営され、ディスプレイもマルチスライドも一本のナレーションを録音したテープを中心にコントロールされるという計画です。
 これがどうだったかというのとその後の経過については次号で。

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