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八幡 泰彦


明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

1960年ですっかり足踏み状態になったまま昨年の記事は終わる事になりましたが、この年(正確には1959年の秋から)は私の方向決めとその基礎固めとして極めて意味のある年になりました。プロの世界に入ることには気後れもありましたし、世界が変わるのも丁稚奉公も気が進まない。背中を押されるようにして入ったこと、その後の道程については既に述べ、未だ続いています。
 まず「何も判っていない」事をイヤと云うほど思い知らされたこと、2年余りの学生劇団での経験はプロの仕事には何の役にも立たなかったこと、プロの世界は思ったより厳しく優しかったことなど、事によると俺って運が良かったのかな、等と思いが一寸よぎったりしました。しかしそんな筈はない。
 1960年の秋に歌舞伎座の〈シラノ=ド=ベルジュラック〉のオペレーションの仕事をすることになりました。丁度一年前、この歌舞伎座で見習いに着いたのが遠い昔のように思われました。昨年の「赤螺蛎太」の大失態以来反省したり怒鳴られたりの日々を重ね、今度芝居に着いたら二度とそのようなことにはするまいと思っていた所に舞い込んできた大仕事でした。演出は文学座の松浦竹雄さんで、シラノは松禄さん、ロクサーヌは山田五十鈴さんでした。稽古場はゆとりある緊張感で、我ながらプロの仲間入りを果たした満足感に浸りこんだ、ま、今考えると傲慢と誹られても仕方がないほどの態度だったに違いないと腋下溢汗の思いです。
 舞台稽古は順調に進み、ややこしい所は整理され初日を迎えることになりました。本番には「赤螺蛎太」で経験したドキドキ感で真っ白になることもなく立ち向かえる程になっていました。舞台は私がオペレーションする音楽につれ、モンフルーリー立ち往生の場も無事におえ、ホッとしていたところでシラノが「ネール門へ行進だ!」と怒鳴っている声が聞こえました。テープはその前の「劇場の観客のざわめき」になっていることを思い出しました。思い出すと云うほど悠長なことではなく、それこそドッカーンと来ました。もう楽隊の扮装をしたミュージシャン達は演奏を始めている。テープを早送りしても間に合うわけがない。その場はみっともなく〈暗転〉になり、演出には烈しく怒鳴られ、勿論先生にも叱られましたが、誠意をこめてひたすら謝る自分を見ている自分に気がついたのは妙な体験でした。トチッタたのはその一回だけで後はトチル事もなくオペレーションをしましたので、かえって褒められました。 1960年の暮れから翌年‘61年にかけて演劇も多くなり、映画の仕事もテレビより本編が多くなってきたように思います。私としては腕前も一グレード上がった感じで毎日の仕事が楽しくて仕方がなかった。
 演劇は歌舞伎座がほとんどで、通うには定期券を買わなければならないかとさえ思ったほどでした。

 記憶には定かではありませんが、従来歌舞伎は松竹の興行でしたが、なんらかの事由で東宝でも行われるようになっていましたが、ある時松竹と東宝の合同公演が歌舞伎座で催されることになりました。
 東宝の菊田一夫作・演出、音楽は古関裕而、出演は幸四郎さんと松禄さんで、兄弟で争い、それに越路吹雪さんが絡むという豪華なもので、ことに越路吹雪さんがワイヤレスマイクを使うという、歌舞伎座としては新機軸の試みが問題になりました。それが大問題になっているとは知らず軽く引き受けてしまったのは、5年ほど前の東京電子時代の記憶があったからかも分かりません。支配人の船越さんが「失敗は許されませんのでよろしく」と重々しく言いました。
 音楽録音はKRCかアオイスタジオだったか、或いはビクターだったか何しろ大きなスタジオだった。音楽をとり終えて古関先生が、「じゃ、一応5本づつプリントして置いてください。」先生は当たり前のように引き受けていましたが、私は稽古場の様子が頭に浮かび、なんとなくゾッとしました。初日はワイヤレスも順調に作動し、全てが事もなく進みましたが、終電の時間になっても終わらない。結局帰ることが出来なくなる客は帰ってもらうことにして終幕まで上演しました。大幅にカットして翌日には何もなかったように仕上げたのにはさすがプロだと感心しました。二、三日してそれまで順調だったワイヤレスが突然眠ってしまいました。とっさにリミッターをみたら受信している、しかし音声信号は来ない。1コーラスは無事受かったのに2コーラス目に起きたに違いない。間奏の間に何かあったに違いない。支配人は目を三角にして「困るよ」と言うが、器械がおかしいのじゃ仕方がないとその場は収まりました。ところが終演後、メーカー立会いで調べたら症状が再現しない。明日様子を見ようと言うことになって、翌日になりました。音楽に乗せて1コーラス目が済み間奏に入り、振りも何の不安もなく2コーラス目に入った。信号がこない!
 終わったら支配人から制作部一同みんな揃っているところに呼ばれました。女優は東宝だからって意地悪することはないでしょって泣かんばかりだ。メーカーに連絡を取り明日の9時から来てもらうことになり、私はダメ押しの点検をして帰ることになりました。シャーシーを引きずり出して、リミッターは働いているのだから低周波段の故障に違いない、それを当たってみようと思い、テスターで当たり始めました。この頃の回路は解かり易かった。基板もなかったし、回路も辿り易かった。結局低周波初段のグリッドリークの断線を突止めることができました。
メーカーが来たのは翌日のことでしたが、ワイヤレスマイクの受信機本体を持って帰るというのを、部品交換で直したことにしてその場で修理しました。この日以来すべて順調に進み好評のうちに千穐楽を迎えました。
 翌1961年八月には歌舞伎座としては初めての試みとなる「三波春夫ショー」をショウビズの辻さんの依頼で助手として参加しました。
チーフは田代さんで、この人は何でも知っている人でした。でも、本番になってもテープの頭をレシーバーで幾度も確かめるという妙な癖がある人でした。

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