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八幡 泰彦


10、激動の1960年
 良く『激動の何年』といいますが、考えてみると将にこの言葉がこの年に相応しいと思います。安保条約で日本中が揉めまくっていたし、私も不本意ながら進むことになった忙しい路に戸惑っていたし、せっかく選んだ学業をどうするか、単位不足は何とかしなければとか、千々に乱れることはあってもよく心身症にならずに来ることが出来たと今にして呆れるばかりです。

 心待ちにしていた演劇の「効果」の仕事に出会ったのは先生の弟子になって半年ぐらい過ぎてのことだったかと思います。
 もう殆ど映画の仕事に浸りこんで芝居のことなどすっかり頭から消えていたある日突然台本を渡されて「顔寄せは終わっているから付け立ちに立ち会うように」「台本はこれ、読んでおきなさい」「遅れないように」「仕事着の袖は、筒袖はいけない」などといわれ、最後に場所は明治座の傍のカミショウカイカンと教えられました。会館は想像できるけれどカミショウはわからない。そんなことは明治座で聞きなさい。知恵を働かすことが全ての基本だといわれたりして、結局その通りにしてカミショウは「紙商」売の会館だとわかりました。
 芝居とは何の関係もない建物で集会室を単に稽古場として借りたものらしい。そうかこういう教え方なのかと納得して、詰まるところ遅れて稽古場に着いたときは既に終わりに近かった。先生は演出家の傍にいて到底近くには行くことが出来ない。あらあらと思うまもなく、ハイお疲れ様、明日劇場で舞台稽古ですのでよろしく、と多分狂言方と思われる黒尽くめの人の挨拶で、みんな帰り支度。
 苦虫の先生は「芝居わかったかね」と一言、解かるわけがあるわけがない。仕方がないので「ええ」と答えました。
 次の日は渋谷の東横ホールで搬入時間を間違えないように。これには充分緊張して今度こそは遅れまいと決心。夜中に台本を頭に入れようとしたのにあれやこれや思い巡らすうちに当日になりました。全然どんな筋かもわからず、ボーっとするうちに「では2時間後、4時から赤西にかかります。よろしく」と誰かが怒鳴っている。
 この日のことは余り言いたくありませんが、何しろ惨憺たるものでした。台本は頭に入らず、テープに収められた「音」は一度も聞いたことはなく、稽古に遅れたために「音」を芝居に合わせることも出来ず、マ、泥棒を捕まえて縄をなうよりもっと惨めな情況を呈していたというのが正しいといえるでしょう。結局一人しか覗くことができない穴から先生が舞台を見、きっかけを受けて私がテレコを動かすことになったのはもう最後の音楽を出すだけになってのことでした。
 「音楽いいね、ハイ」でテレコのレバーをひねりましたが音が出ない。で先生の顔を見たらものすごい形相で「テレコ!」の一言。テレコを見たら早送りになったのか高速でテイクアップリールに巻き取っている最中。その後の先生の動きの素早かったこと。どうもレバーをプレイにするときに上着の袖で早送りにしてしまったらしい。「作業着の袖は、筒袖はいけない」といわれたのはこのことかと、妙に冷静に「私を見ているもう一人の私」の感覚を憶えています。「いい、わたしがやる。」どうやら先生は私の実力に見切りをつけたようでした。
 それから間もなく私がオペレーションを受け持つようになったいきさつは憶えていませんが、中日には一人前に楽屋口で挨拶するようになったこと、パニックは舞台稽古の日だけだったことなどを考えると馴染みは早かったのでしょう。

 今思い出すとそんな私に「向いてないね」「やっぱり他を探すか」などと言う言葉は一言も云われなかったのは先生の辛抱強さだったかと思います。教え方もその時その時で箴言と言うのか、短く具体的に露骨にビシッと来ました。「そのテレコ(据え置きのプロ用の、例えばソニーや電音といった)の音量調整はボリュームかね、アッテネーターかね」「その目盛はどんな単位かね」本番中にフィッとそんな事を聞かれ、「ボリュームじゃないですか?アレッ数字が目盛ってある」「手ごたえはボリュームより軽いようです」「もうよろしい」それで慌てて神保町に行き、「音声増幅器の設計と調整」などと言う難しい本を何も解からないまま読みました。何度も読み返すうちに解かったように思えてきたものでした。
 そのうちに高度な技術雑誌にも手を出して先生の質問の意味がわかるようになりました。回路素子としてのレベルコントロールは減衰器であって、増幅機能は持っていないとかインピーダンスの考え方とか誰も教えてくれないので我流ながら勉強したものです。あとで仲良くなってからスタジオの助手さんとかミキサーさんにそれとなく出身の畑やそこで勉強したことを聞いて、なんと自分は遠回りをしてきたのか後悔する場面もありました。こうなったら自分は何を武器に戦場に赴かんとするのか。

 劇研や学部のほうも気にならなかったわけではありませんが、何しろ充実感が違うのでそっちの方よりもこっちに身が入ってしまう。その結果とるべき単位の見通しは全く明るくない。代返を頼んだら「出席まではばれずに済んだものの、うとうとしている時に本名を呼ばれ二人立っちゃった。それでさ」後はどうしたものやら・・・
 何しろ月謝は払わなければいけないし、代返頼むよりも出席です、大事なのは。そんなことは言われなくとも解かっている。解かっているけど答えはない。で三年生と四年生の過ごし方は、これは、留年は仕方がないとしても卒業はしなくてはなどと、纏めようとしても、なにかまとまる方向には行かない。その時考えるしかないとこれ以上悩むのは止めました。これは期せずして入ってしまった音の仕事に生きがいを感じ始めたことがその理由だと思いますが、これも極めるには道遠しで、難儀なことだ。かと言って艱難辛苦には遭いたくないし。

 この世界を覗いたのは歌舞伎座で、いわばプロの極みにのっけから出遭ったことになるのですが、効果室の構造から脇で見ているのみで手伝うことは出来なかった。これが今考えると、運が良かったことの始まりでした。私を預けられた田村先輩にしてもこの学生をどう扱っていいものやら、作業を教えるといってもどうしたらよいのか、まあそこで見ていなさいとしか言いようがなかったに違いない。
 歌舞伎座に通っているうちに出会ったのがテレビ番組の音付けの仕事で、これも「運がよかった」事になります。最初に「本編」から出会っていたら、このあと出会うことになる「東横ホール」の出来事を考えれば、思わず背筋が伸びるような気がします。

 この頃のテレビ番組の、ことにドラマものはフィルムで制作されていました。VTRが実用化される以前の時代で「生」以外の番組はそれまでの映画製作の素材や技術をそのまま利用していました。ただフィルムは35ミリではなく16ミリを採用していたのは画質よりも1ロールが30分以上掛け替えなしで上映可能だったことによるものでした。
 従ってテレビの制作は劇場用の映画(本編)制作の出身者とニュースやドキュメントの出身者が中心になっていましたし、映画関連の技術の団体は映画にテレビを加えたことはその事情によるものです。これはスタジオ制作にも見ることが出来ます。
 セットの「美術」は舞台の大道具製作の会社が、「照明」は劇場照明や撮影所の照明を担当していた会社が引き受けていました。
 そんな訳で素人同然だった私が踏み込んだ状態は新しいメディアを前に活気溢れる時代だったのです。これも「運」がよかったことなのでしょう。
(カット 芦谷耕平) 
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