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八幡 泰彦



6.1955年冬承前の続き
 ミキサーと言うものと初めて出会ったものの、それが何を目的とするものかわからず、やがて私の仕事の要になろうとは、思いもしませんでした。それよりも傍にあったスピーカーボックスに釘付けになりました。これがあの「良い音」の元締めだったのかと思い当たったものです。で、そう聞いたところ、黙ってそのシステムの蓋を開けました。
 2メートルぐらいの距離を置いての試聴でしたが、私にとっては初めて聞く「良い音」でした。「10吋のコーラル(福洋音響製)のスビーカーで、6V6PPでドライブしている。カートリッジは東京サウンド製のVR(バリアブル リラクタンス)型で、SP〜LPの針交換はレバーによるものだ」そんな説明は上の空でそのセットの「音」に聴き惚れていました。

その時をきっかけに私はその人の下に配属されました。テレビと同じMデパートの扱いになる特注のHiFiで相当に高価なものだとは後で知りました。そこで徹底的に仕込まれたことは一段も二段も品質が優れた部品を使うことでした。「それは寿命の保証に繋がるし、お客の手に渡った後は誰が見るか判らない。セットの中や裏を見た人に悪く言われると後の信用に係わる。だから抵抗やコンデンサー、ラグ板や板金、ハンダ付けもニッパーの使い方も線の端末の処理も細心の注意が必要」なのだと教わりました。云われてみると部品の「造り」に随分違いがあり、やがて手触りでも或る程度それがわかるようになりました。部品は殆ど「秋葉原」で調達したものです。困ったのはツマミでした。これが良いのがない。通信機や測定器用のツマミには〈そこそこ〉のものがありましたが、家庭用の什器として高級感のあるものはなかった。単品手作りの悲哀を感じたものでした。いずれにしてもこの一年半はバイトのつもりで入ったものの、期せずして意味のある、そして刺激が強かった経験でした。
 ある日、火入れして音を出し、満足すべき結果を確認し、完成したセットの前で私は彼に質問したことがありました。「次、どんな球を使ってみたいですか」彼はこう応えました。「もう少し作曲家や演奏家について知りたいし、楽器の音、レコードを聴きまくりたい」その答えの意味に思い当たるのは40年後になります。

7.1957年春
 1956年の秋深くなった頃に「学校どうするの?」と周りの人たちに言われ、ソーカと思いバイトをやめてのっけから追い込みに入りました。その結果、文学部の演劇専修に辛うじて入りました。演劇のサークルにも入りました。なにしろ「演劇」の世界などは半年前考えもしなかったので勝手も判らず、途方に暮れた挙句の選択肢でサークル入りを決めました。電気の経験を買われて配属されたのは「照明」でした。しかし高いところが駄目だと云ったら、それでは君は小道具係りだと、どういう根拠かわからないが、決められてしまった。小道具は小道具屋に借りに行くものと作るものとがあり、またそれぞれに薀蓄があると聞いて像然興味が湧いた。真山美保作「市川馬五郎一座顛末記」で当時人気絶項だった“新制作座”のレパートリーで、五月公演を前にして部室は熱気で溢れていました。「スケジュールは壁の予定表を見るように。チーフとよく相談をして段取りを決めてください。」「裏についた人も稽古場には顔を出すように。」「台本を読んで自分なりにプランを考えて」要するに本来の学生の本分は大学の授業優先である筈が、ここでは「早稲田大学演劇研究会」のスケジュールを優先しなければならないことになっている。これはえらいことになる。そう予感が走りましたが気持ちはもう「劇研」に向いていました。軽挙妄動に走りやすい性格だと後で気が付きましたが、それは先の祭り。取得単位が足らず、留年せざるを得なくなったのもこの劇研に入ったのが原因でした。軒端に吊るすトウモロコシを作っていたとき、舞台監督がやって来て、君は電気がわかるのか、と言いました。「そうか良かった、では効果の助手として付いてください。チーフはあの人」で公演の10日ぐらい前に役割が移動しました。この生まれて初めての「音体験」は残念ながら殆ど憶えていません。「効果」が陣取った部屋は舞台を見るには高すぎてチーフ一人しか舞台を見ることが出来ない。助手たちはめくら桟敷という訳でどっと沸く観客の声や反応は察するしかない。私たちにきっかけを出すチーフはそのたびに「うまくいった」と満足したり、がっかりしたりでこれも見当が付かない。ないない尽くしでしたが、公演自体は成功でした。

 この公演の後、後に残ったのは私一人だけ。で、一人で効果の仕事を引き受けることになっちゃった。今考えると文学部で電気の知識があるのは珍しかったのでしよう。
 私に専門知識が不足していたのは前号をお読みになった方は既にご承知でしょうが、この時期さらに決定的に不足していたのはそのことについての私自身の自覚だったと言えるでしょう。
 今まで放送研究会やラジオ屋から借りていたアンブも作りましたし、テーブレコーダーも作った、とは言えこれはキットで組み立ては簡単だった。
 その夏の旅公演は村山知義作の「初恋」と木下順二の「狐山伏」でしたので、これも記憶にありませんでした。
 旅に出る前、演出部の中がざわついていました。秋の公演の準備、レパートリーの選定に問題作が提出されるらしいと云う噂です。私には早々裏方精神、と云うよりも根性が身に付き始めていましたので、ま、そこんとこ、よろしく、を決め込んでいました。

 旅公演も終わった頃、秋の公演のレパートリーが決まりました。東大を出たばかりの福田善之氏の作品で「長い墓標の列」。本邦初演だそうです。何しろ長い本でしかも思想がテーマのようだ。これは稽古が固まってからのほうが良さそうだ。打合せと称する、結果飲んでしまうミーティングはこの頃からよく行われました。それがやがて留年の原因の一つになったことは否むわけには行きません。
 さてこの本のト書きには「効果」の指定はわずかでした。頭で大学の構内を行進する教練の足音があります。作者に相談したところ、NHKの効果部に話しておくから取りに行きなさいとのことでした。訪間して驚いたのは「効果」だけで1フロア占めていることでした。たずねて出てきた人も鷹錫な人で微笑みながら「返してくれなくても良いです」と言いつつアセテート盤を渡してくれました。確かに足音が入っていました。
 このほかの音はレコードの溝飛びでこれは宿題でした。さらに宿題が続きます。
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